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新型コロナ、再拡大を警戒 総合力で複数手段を用意し「完封」を

日本においては、新型コロナウイルス感染の第3波が峠を越えた。ワクチン接種も開始された。ただし、国民の大部分が接種を終わるまでまだ少なくとも半年はかかりそうだ。2021年度前半は、通常の手法で感染の再拡大を防ぎつつ経済活動を速やかに復旧させることが重要課題である。
 まず、無症状のままウイルスの排出がはじまることが多い新型コロナ感染症の特異な性質に注意しよう。したがって、健康に異常がなくてもマスクの着用と頻繁な手洗いを継続しよう。特にマスクが重要だ。保因者の口や鼻から飛散するウイルスを含んだ唾液や鼻汁の飛散を防ぎ、受け手の口鼻周辺への直接付着を防ぐ。
 また、喉鼻への保温・保湿効果を持つマスクの着用は、本来人が持つ呼吸器感染症への防御システムの維持という意味でも重要だ。人の気道の皮膚は本来、粘膜と繊毛運動の異物排除機能で保護されている。
 ところが、低温では繊毛運動が鈍り、乾燥すると粘膜が固まってこの機能が失われてしまう。このことが、冬季の低温乾燥条件で、呼吸器感染症の蔓延(まんえん)が起こりやすい原因とされている。
 次に、マスク着用が難しい飲食時の対策だ。乾燥している室内では、会話などで口から飛散する比較的大きな唾液滴(数十ミクロン以上)を通して感染が起こる。空気中をほぼ弾道飛行するこれらの唾液滴は、保因者との間に障害物を置くことで有効に防げる。食堂や居酒屋などでは、客同士の間に透明な衝立を設置することを考えよう。そのような対策を取った店に関しては、通常営業を奨励すべきだと考える。
 乾燥した環境では、直径が10ミクロンよりも小さな液滴は急速に水を失うので、ウイルス表面のSたんぱくが変性して早期に活性を失う可能性が高い。ただし、トイレ、風呂場、シャワー室など常に相対湿度が高い場所では、壁や便器、ドアノブなどに付着したウイルスが活性を保ち続ける可能性がある。それらを触った手指で鼻口眼周辺を触れば感染する。
 一般に、ウイルスの活性は紫外線照射で失われることが分かっている。トイレや風呂場などに紫外線を交ぜた照明を使ったり、壁面などに光触媒塗料を塗ったりしてウイルスの活性を早期に奪う手法が有効である。
 さらに、長時間「3密」状態を強いられる飛行機や列車での移動に関しては、乗客に搭乗直前の核酸検査を義務付けることを考えよう。最近、数時間以内に結果を知らせる核酸検査サービスが開始された。ただし、結果通知までの時間を短縮して1時間以下にすること、一時に大量の件数をさばくことに関しては、まだ課題があると聞いている。ぜひそれらを克服して早期に実現してほしい。ロックコンサートやスポーツイベント、そして接待を伴う飲食店なども、直前に関係者全員の核酸検査を実施してコロナフリーな環境を実現し、心置きなく楽しめるように工夫しよう。
 このように、新型コロナの感染拡大を防ぐ技術的な準備が整いつつある。現状のワクチンでは効果がない変異型の出現も心配されており、ワクチン接種のみでは足をすくわれるかもしれない。これからは、場面に応じさまざまな対抗手段を用意して、社会に広めて早期に実効を上げる勝負となる。その実現には、科学者や技術者だけでなく、実業家、政策担当者らを含んだ総合的な組織力が要求される。
 これまで日本は、比較的軽症でここまできた。このまま最後まで気を緩めずに完封し、世界に範を示そうではないか。

2021年3月1日 フジサンケイビジネスアイ
許可を得て転載

紫外線によるSARS-CoV-2ウィルスの不活性化

ファイル 304-1.pdf

2020年9月3日アクセレレーション技術発表討論会における戎崎の講演資料。

SmartAmp法による高速診断キットの開発

ファイル 303-1.pdf

2020年9月3日に開催されたアクセレレーション技術発表討論会における林崎氏の講演で使われた資料。

現代科学「複雑な系」への挑戦 鍵は大規模シミュレーション・計測技術

 17世紀後半のニュートンによる現代科学の創始から現在まで約350年の間、近代科学の発展に伴いさまざまな物理系の仕組みが解明された。太陽系や理想気体など単純な系に適用されて大きな成果を上げた。しかし、20世紀も後半になると単純な系の研究はほぼ終わり、単純でない系、つまり複雑な系が未解明で残った。
 現代科学が今直面している複雑な系には、相変化を伴うガスや凝集系、生命体(脳や身体運動、個体発生を含む)、生態系、気候システム、プラズマ、自己重力天体(星、星団、銀河、そして宇宙全体)などが含まれる。これらの複雑な系に共通の特徴がある。まず、非常にたくさんの要素が関係する多変数系である。次に、それらの要素同士が相互作用し合い、その影響が元に戻ってくると言った意味で、強い非線形性を示す。この結果、因果関係が複雑にもつれ合っている。
 また、秩序を壊す熱エネルギーに対して、相互作用エネルギーが優位(強結合)で、秩序や構造が勝手に生まれる。その結果、不安定性が引き起こされ、激しく変動している(非定常)ことが多い。さらに長距離・長時間の相関が見られる(強相関)。
 これらの特徴のために、物理で用いられる一般的な分析手法、線形理論や、摂動法、局所近似、定常解の適用などのほとんどが使えない。また、各要素の振る舞いの因果を一つ一つたどっても、全体としてみたときには、非線形なフィードバックの嵐の中に、因果関係が雲散霧消してしまう。一時期、複雑系の科学としてカオス理論がもてはやされたこともあったが、予測不可能に見える複雑な系の実態に切り込むことはできなかった。
 これらの問題を克服するため、20世紀後半から大規模な数値シミュレーションが行われるようになった。たくさんの要素の間の相互作用をできるだけ忠実に与えて、全体の動きを追いかけ、実験・観測事実と直接比較すればいいというわけだ。確かに、10億個以上の粒子を入れた銀河シミュレーションを行うと実際の矮小(わいしょう)銀河の形がかなりよく再現されることが分かった。銀河系のような普通の銀河(約1000億個の星でできている)を再現するのに、もう一息だ。
 また、粉体のシミュレーションでも10億個の粒子(つまり縦・横・奥行きにそれぞれ1000個の粒子を配置できる)を用いれば、実際の粉体系で見られるような流体的な振る舞いをかなりよく再現することが分かった。このまま進めば、約1000億個のニューロンでできた人間の脳の再現も近い将来可能かもしれない。力任せで押し切れるなら、全脳シミュレーションに邁進(まいしん)すればいいと思う。
 ただし、大規模シミュレーションも万能ではない。まず、要素の間の相互作用については個別の実験事実に基づき、本質をよく理解して取り入れる必要がある。数値シミュレーションをするときは、既存の分析手法で押せるだけ押して、どのような相互作用を正しく再現しなければならないかをよく理解して行う必要がある。また、多変量を扱うので、比較に用いる測定・観測量もそれに匹敵するほど多い必要がある。少数の測定点ならば、多変数のパラメータを組み合わせることで、どうとでも合わせられることがある。いわゆるカメレオンモデルになるからだ。
 大規模シミュレーションは大規模計測技術とともに、21世紀の科学を牽引(けんいん)するだろう。

フジサンケイビジネスアイ
2020.10.30

自粛ばかりが能ではない 「3密」でのコロナ不活性化装置開発急げ 紫外線LED、光触媒…アイデアいろいろ

 5月25日に緊急事態宣言が解除された。日本は密閉・密集・密接の「3密」がそろうところで感染が起こりやすいとして、それを避けることに注力し、新型コロナウイルス(COVID=コビット-19)の感染拡大抑止を医療崩壊に陥ることなく成し遂げた。反省すべき点はたくさんあるが、比較的軽傷で第1波の感染爆発を食い止めたことは素晴らしい。安倍晋三首相をはじめとした政府関係者、地方自治体担当者、医療従事者の方々の努力に敬意を表したい。
 今後の経済活動を再開するフェーズでは、第2波、第3波の感染爆発が発生するだろうし、次の冬にはインフルエンザとともに流行が再開すると思われる。いつまでも3密を避けるだけではうんざりする。問題は主に3密であることがはっきりしたので、それを無害化する対策を立てればよい。3密空間のウイルスを不活性化する装置の製品開発を早急に進めよう。
  まず、長期間の3密を強いられる国際線フライトでは、搭乗直前に搭乗者全員の保因子検査を実施する。30分以内で結果が出る検査技術は既に確立されているし、それで搭乗者全員の検査を行っている航空会社もある。世界的な感染拡大を防ぎつつ、経済活動を維持するために、早急に実施すべきだ。検査キットの量産体制と搭乗ゲートにおける検査体制の確立を急ぐ必要がある。
 次に、3密空間の照明を、紫外線を含んだもの(紫外線カクテル電球と仮に呼んでおく)に切り替える。ウイルスは数分の直射日光照射で大部分が不活性化することが報告されている。太陽光に微量に含まれる紫外線がその原因だ。
 LED(発光ダイオード)電球の中に紫外線LEDを交ぜることにより容易に紫外線カクテル電球を作ることができる。野外の拡散太陽光の数分の1の紫外線強度に抑えれば、大部分の人間への悪影響は最小限にとどまるだろう。
 紫外線に敏感な体質の人は、サングラスの装着や日焼け止めの塗布などが必要かもしれない。人体の接近を検知するセンサーと連動すれば、人が近くにいるときは紫外線レベルを弱めに抑え、遠ざかったら自動的に紫外線強度を上げて、消毒モードに切り替わるような知的な制御も可能だろう。
 電車内や飛行機(国内線も含む)内、病院や役所、公衆トイレ、レストランや居酒屋、スポーツジムなど3密が発生する可能性がある場所には早急に紫外線カクテル電球を設置してほしい。
 その他、アイデアはいくらでも出てくる。光触媒の原理を考えるとウイルスの不活性化機能を期待できる。光触媒を用いた空気清浄機や便器、塗料などは有望だと思う。これらの製品を大急ぎで開発(既に開発済みのものもある)し、ウイルスへの不活性化効果を確認の上、今冬の再流行に間に合わせていただきたい。政府や地方自治体もそのような製品の購入や普及に努力してほしい。研究所や試験機関も、製品の有効性や使い方についての公正な試験結果を発表することで貢献できるはずだ。
 このようにして日本の全ての空間が、世界のどこよりも安全だと世界の人々が確信すれば、2021年の東京五輪正常開催が視野に入ってくる。自粛ばかりが能ではない。そろそろ働くときだ。進め、日本人。

2020年6月4日 フジサンケイビジネスアイ 許可を得て転載

Japan's Secret War

Japan's Secret War: How Japan's Race to Build its Own Atomic Bomb Provided the Groundwork for North Korea's Nuclear Program Third Edition: Revised and Updated
2019/12/10
Robert K. Wilcox
 本書の1985年の初版が出されたときの端書きは、1946年10月3日にDavid Snell氏がAtlanta Constitutionに書いた記事”Japan Developed Atom Bomb: Russians Grabbed Scientists”から始まる。その内容は、「帝国日本が自力で原爆を完成させ、8月10日(広島原爆投下の3日後、無条件降伏の5日前)に爆発実験に成功していた。その場所は日本海に面した朝鮮半島北部の町、興南の沖であった。実験成功を確認した技師らは、関連記録と試作に要した装置を破壊した。しかし、原爆投下直後に日本に対して宣戦布告したロシアの部隊が予想以上に早く興南を占拠し、開発に関わった技師らをモスクワに拉致した」というものだ。彼らは拷問などで、ロシアの原爆開発への協力を強制された。その結果、ロシアは異例の短さで1949年に原爆を完成させたと著者は言う。朝鮮戦争が勃発するのは、その翌年の1950年である。
 この記事に興味を持った著者は、1797年に日本の無線通信の傍受記録の開示情報の調査を開始した。そしてCecil W. Nist大佐がサインした記録の中に、「日本が降伏ぎりぎりまで、現在の北朝鮮の領域にある興南で、原子力の軍事応用に関する技術開発の努力を行っていた」との記述を見つけ、上記のSnell記事が何らかの真実を含んでいるととの確信を持った。興南は、野口遵が率いる日窒コンツェルンが建設した化学工場群の中心に位置しており、長津湖、虚川湖の水力発電から600,000kWの電力を得ていた。マンハッタン計画でウラン濃縮を行ったオークリッジに必要な電力が250,000kWであったことを考えると、興南を中心に日本版マンハッタン計画を遂行するのは電力の観点からは不可能ではなかった。
 著者は1980年に来日し、日本の原爆開発に携わった人々にインタビューをしている。帝国陸軍のサポートで行われた二号研究の中心人物であった仁科芳雄は、1951年に死去していたので、部下だった玉木秀彦や二号研究担当の技術将校だった山本洋一らにインタビューを行っている。仁科とその協力者は多くの困難を乗り越えて、1944年の3月までにウラン鉱石からのウランの精製、六フッ化ウランガスの製造、そしてU235の分離(熱拡散法)に関する技術的な目処を立てた。また、激しくなる空襲を考慮して、大阪で量産型の装置を組み立てることにした。しかし、4月12日の空襲で設備のほとんどを失ったこと、ウラン鉱石が十分な量集まらなかったことを理由に中止されたとされている。一方で、帝国海軍のサポートで進められてきたF号研究は京都大学の荒勝文策を中心に進んでいた。金属ウランの製造に成功し、U235分離に使う遠心分離装置は完成しつつあったが、尼崎などの爆撃によって破壊されて、U235分離作業には至ってなかったとされている。
 しかし、と著者は言う。関西に集まっていたこれらの装置と設計図が密かに興南に輸送され、原子爆弾製造の努力が継続されていたのではないかと。興南には、日窒コンツェルンが建設した電気化学工場が集積しており、重水素の製造が行われていた。帝国海軍との協力により試作中のジェットエンジン用の燃料の製造も行われていた。連合軍の本土攻撃の際に、ジェット機に搭載した原爆による神風攻撃で一発逆転を狙っていた。また、上に述べたように近くの水力発電所からの供給で電力は不足がない。さらに、朝鮮半島北部と満州国では低品位ではあるが、ウラン鉱石が採掘されていた。それを采配していたのも日窒コンツェルン傘下の企業であった。詳細は分からないが、必要な量を調達できた可能性は十分にあると著者は主張する。

 著者の集めた情報は、米国の諜報開示資料や日本占領米軍の関係者への尋問記録を主体としており、直接証拠に欠けるが、一考の価値はあると私は思う。しかし、研究室での試作段階から、原爆製作まで4ヶ月で行ったというのは、あまりにも無理がある。実態は、U235の分離にある程度成功していたが、まだ爆弾製造には至っていなかったというところではないか。Snell氏の記事のうち「爆発実験に成功」の部分のみが法螺で残りはほぼ事実ではないかというのが私の見立てである。
 興南で日本版マンハッタン計画がある程度進展していたとすると、1945年8月のロシア参戦と1950年から始まる朝鮮戦争における中国共産党の動きが理解できるような気がする。両国とも日本帝国の遺産である原爆製造技術の略奪に懸命だったのだ。ロシアは、広島原爆投下の次の日に参戦し、異例の速さで南下して興南を占拠している。興南占拠が参戦の目的だったのだ。一方、長津湖は朝鮮戦争で米中軍が死闘を演じた場所だ。中国共産党の参戦目的の一つは興南の原爆製造技術だったのだ。GHQ司令部が現場将兵の反対を押し切って長津湖への無謀な進軍を強いたのも、傲岸で無能だっただけではなく、中国共産党の野望を察知していたからかも知れない。もちろん、現在の北朝鮮の核開発も日本帝国が作った興南に根があるということになる。
 この件はまだ闇が深そうだ。今後、米国諜報部の開示が進めば、その一部は明らかになるかも知れない。日本側に残された記録ももう一度精読しておく必要がありそうだ。

The Story of the Human Body: Evolution, Health and Disease

The Story of the Human Body: Evolution, Health and Disease
Daniel Lieberman
2014/10/2
 進化人類学者の著者は、現生人類に蔓延する生活習慣病の原因が、狩猟採集生活に適応してきた人類の体と現代的な生活との不整合にあると主張する。本書はまず人類の進化の道筋をたどる。
 人類は約9百万年前に、ゴリラ、チンパンジーとの共通祖先から別れた。三者の共通祖先は、アフリカの熱帯雨林の樹上生活者で、そこに一年中実る果物を食べて生きていた。東アフリカでは大陸が分裂するリフト活動が始まった結果、高原化して乾燥し、密林が疎林・草原に変わった。人類はそれに適応して直立二足歩行を始め、独自の進化を始める。果実が得られない時期には、植物の葉や茎、地下茎や動物を食べるようになった。二足歩行で開放された上肢を使って簡単な石器を作り、堅い食物(地下茎や動物の肉)を切断・破砕した。完全な直立歩行(走行)はエネルギー効率が高く、食物の採集のための長距離の移動が可能となった。
 動物の肉は、死肉漁りの他に、持久狩猟によって得た。この狩猟法は現在でも熱帯の採集・狩猟民族の間で広く行われている。狩猟者は炎天下に大量の水を飲んで準備をしておく。獲物を見つけると、隠れ家から追い出し後を追跡することを延々と数時間繰り返す。獲物は炎天下で常に走らされる続けた結果、熱中症に陥って動けなったところを止めを刺される。この方法により、敏捷性や力に劣り、まだ武器を発明していない初期人類が、高エネルギーの肉を得ていた。炎天下に数時間走り回る持久力を得るために、毛が退化し、汗腺を発達させて水の蒸発による冷却を可能とした。いったんは視界から消えてしまった獲物を見つけるための追跡には、二足歩行による視点の高さと大きな脳による推論能力が貢献した。
 この間、脳は大幅に肥大した。現生人類の脳は体の基礎代謝量の20%を消費する高価な装置で、唯一のエネルギー源であるブドウ糖の供給が一瞬でも止まると回復不可能な損傷を受ける。持久狩猟中や不幸にして食物が得られない時期でも脳を維持するために、食物があるときに食べれるだけ食べて、脂肪にしてエネルギーを蓄えるように進化した。特に、育児中の雌は、自分と胎児もしくは哺乳中の乳児に与えるエネルギーを確保するために、脂肪の蓄積能力が高くなった。それでも育児中の雌が単独でこれらのエネルギーを賄うことが困難なので、連れ合いと両親が不足分を彼女に供給するようになり、食物を分け合って助け合う家族の原型ができあがった。
 現生人類は約20万年前に誕生した。石器、火の利用と言語による高度な相互協力の実現などのイノベーションを背景に、狩猟採集者として様々な環境に進出を始める。彼らは、1日に女子で平均9km、男子で15kmも移動し、広範囲から食料を得ていた。人体は、このような数百万年におよぶ狩猟採集生活で問題が少ないように進化適応してきた。その後起こった農業革命と産業革命により人類の生活様式が激変した結果、人体とそれを取り巻く環境の間に大きな不正合が生じるようになった。
 麦、米などの穀物の栽培は約1万年前頃から世界の各地で始まった。また同時期に、羊、山羊、牛、豚、牛、馬、犬の家畜化が進んだ。1カ所に定住し集落に集まって住む農民が生まれる。彼らの食物は、糖質主体のものとなり、ビタミンの不足による病気、すなわち壊血病(ビタミンCの不足)、ペラグラ(ビタミンB3の不足)、脚気(ビタミンB1の不足)に悩まされるようになった。また、穀物からの糖質中心の食事により、虫歯が発生するようになった。さらに、人口密度の増加により衛生環境が悪化し、家畜起源の伝染病が蔓延するようになった。その例は、腺ペスト、懶、腸チフス、ラサ熱、マラリア、麻疹、結核などである。これらは、多様な食物を食べ、離れて暮らす狩猟採集民にはあまり見られない病気である。
 約250年前に始まった産業革命で、人口の都市への集中がさらに進み、労働環境と公衆衛生環境の極端な悪化から、感染症と栄養の偏りによる病気が激増した。しかし、それぞれの原因が特定され、労働・公衆衛生環境がと整えられるにつれて克服されていった。ただし、虫歯については、現代的な歯科治療により対症療法は進んだが、克服には至っていない。
 しかし、それらに代わって二型糖尿病、心臓病などの慢性的な肥満による病気、免疫不全に関係した病気が増加している。これらの真の原因は、狩猟採集生活に適応した人体と現代人の生活環境の不整合にあると著者は主張する。
 著者によれば、両者の不整合による健康問題は以下のようなものがある。まず、二型糖尿病と動脈硬化は糖質(特に果糖を半分含む砂糖が大量に入った)主体の高度に加工された食物・飲料の大量摂取による慢性的な肥満に原因がある。繊維質がほとんどないこれらの食物・飲料を摂取すると、急速に血中濃度が上がる。それは、インシュリンの大量放出と脂質の蓄積につながり、それらの相乗効果でインシュリン不感症と高血圧、動脈硬化を進行させてしまう(いわゆるメタボリックシンドローム)。その対処法は、それぞれの対症療法のみではなくて、真の原因である人体と生活環境の不整合に着目して、砂糖が大量に入った食物・飲料を避ける、暴飲・暴食を避け、適度な運動でエネルギーバランスを中立に保つなどであるべきだと著者は主張する。また、骨粗鬆症は運動不足により筋肉骨に十分な負荷がかかっていないこと、親知らずの異常伸張は柔らかいものばかりを食べることによる顎の骨の成長不良、アレルギー症は公衆衛生の行き過ぎにより人体の免疫システムに十分な負荷がかかっていないことが原因であるとしている。
 その他、ジョガーに見られる足の故障は厚い靴底による過保護、近視は屋内で書物やコンピュータスクリーンを長時間凝視しすぎ、腰痛は柔らかい椅子での長時間作業などが原因であり、人体と環境の不整合による問題としている。これらについても、対症療法に頼るだけでなく、真の原因に着目した予防的な対策を推奨している。つまりそれぞれ、できるだけ薄い靴底を使うか裸足で歩く、アウトドア活動の奨励する(特に成長期)、適切な間隔でのストレッチと適度な運動を行う、などである。
 豊富な人類学の知識を駆使した著者の議論は大変説得力がある。特に、著者の持論である初期人類の持久狩猟戦略とそれに有利なように進化した人体との特徴の議論は、大変興味深い。武漢コウィルス禍による巣ごもり状態の自分を省みるに、耳の痛い話ばかりである。人類の進化と生活習慣病に興味ある人は是非読むことをお勧めする。著者が言うように、いろいろ試しながら反応を見つつ、自分の体をよく耕していっそうの長寿を手に入れようではないか。

This Is Your Brain on Music: The Science of a Human Obsession

This Is Your Brain on Music: The Science of a Human Obsession
Daniel J. Levitin (著) 2006
 音楽が人間の脳の中でどう処理されて認識に至るかに関する良著。著者は、大学を中退の後、カリフォルニアでロックバンドに参加した。バンドの崩壊の後、録音技師やプロドューサーとしてスティービー・ワンダーなどの有名なアーチストと仕事をした。音楽アーチストの創造の現場を間近に見た経験を基に、音楽が人間の耳と脳でどのように処理されるのかを理解するためにスタンフォード大学に入学して大脳生理学の研究を始めた異色の経歴を持っている。
 まず、著者は音楽の構成要素の議論から始める。まず音が持つ性質として、音程 (pitch)、リズム (rhythm)、テンポ (tempo)、音色 (timbre)、音量 (loudness)、反響 (reverberation)が説明される。さらに、それらを基に脳が作り上げる高次の概念として韻律 (meter)、キー (key)、旋律 (melody)、和音 (harmony)の意味が記述される。確かこういう話は高校の音楽の時間で習ったような気がするが、すっかり忘れていた。当時はイメージが湧かなかったので授業が苦痛でしかなかったが、今はわかるような気がする。そして、音が人間の耳と脳の中でどのように処理され、構成要素に分解され、高次概念に統合されているかが説明される。
 音楽では1オクターブ(周波数で2倍)離れると、同じ名前の音に戻るが、その理由が初めてわかった。すべての楽器が出す音は、基本周波数だけでなくその倍音を含んでいる。したがって、ある音程、例えば「ド」の音を弾くと、周波数で2倍、3倍、4倍の倍波が必ず混ざる。それらは区別できないし、区別する必要がない。つまり、同じ名前で呼ぶ方が便利なのだと。また、西洋音楽では、1オクターブの中の12音のうち(普通の人間が区別できる限界)、7音(つまりドレミファソラシ)しか使わないのも、混じると変な感じの唸りがする音の組み合わせを避けているのではないだろうか。
 著者は、音楽形式に則った脳による予測に対して、微妙にタイミングや音程をずらすことが音楽の妙味であると主張する。それにより脳は驚き、それが適度な場合はそれを好む。一世を風靡した歌や長年演奏されている音楽は何らかの意味でそのような驚きが隠されていて、大きな効果を上げていると言う。著者の同時代の歌や音楽を例にしてのこの主張には説得力があった。
 では著者は、どんな研究をしたのだろうか?録音技師の経験を基に以下のような実験を行った。特別な音楽の訓練を受けていない人々に、自分の最も好きな(したがって何度も聞いて覚えている)歌を、そらでどれくらい正確に再現できるかを実験で確認してみた。驚くべきことに、彼らの大部分はリズムも音程もほぼ正確に再現したのだ。この事実を日本人は、納得できると思う。十八番は、カラオケなしでも再現性高く歌う人が多い。では、脳はテープレコーダーを持っているのだろうか。どうもそうではない。脳は歌を早送りすることができる。つまり、アルファベットの文字の順番を思い出すときに、アルファベットの歌を心の中で早回しで歌うことがある。テープレコーダーを早回しすると音程が上がるが、脳の早回しは音程が変わらない(早回し歌を声に出して歌ってみるとわかる)。人間の脳は器用にも、それぞれの音程を覚えていて、それを順々に正確なタイミングで出力しているのだ。
 脳の中でこれができるのはどこか?著者らは、小脳に着目する。小脳は運動時のタイミングを記憶して必要な時に出力している。これが音楽でも働いていると十分考えられることだ。そこで、著者らは、fMRIを用いて音楽を聴いている脳内の活動度を撮像してみた。その結果、耳で電気信号に変えられた音信号は、まず聴覚皮質で前処理を行った後に、前頭葉のBA44とBA47(音楽の構造と予想処理を行っている)を経由して、中脳辺縁系に送られていることがわかった。この間、小脳と大脳基底核はずっと高い活動度を示し、リズムと韻律の処理をサポートしていると思われる。中脳辺縁系は、覚醒、喜びを司っており、特に側坐核は励起されるとドーパミンを分泌する。このようにして音楽を聞くことは、側坐核の放出するドーパミンにより報酬が与えられ、関与する神経回路が強化されていると考えられる。
 上に述べたように、音楽処理機能は人間の脳の基幹的な部分に組み込まれていることが分かる。また、地球上のすべての現生人類のコミュニティで、音楽とダンスはその生活と文化に深く根ざしている。また、5万年前の遺跡から動物の骨で作られた笛、つまり楽器が出土している。これは、音楽が現生人類の進化のかなり根元から重要であったことを示している。なぜ、人にとって音楽がこんなに重要なのだろうか?著者は、二つの理由を挙げている。まず、ダーウィンが最初に言ったように、性淘汰である。歌や演奏、ダンスがうまいことは、強いセックスアピールとなる。それは身体が健康で心が活発であることを示しており、生存能力が高い子孫を残すための重要な指標だというわけだ。著者が実例としてあげるロックスターたちの異様なモテ方は性淘汰説を裏書きしているのかも知れない。もう一つの可能性は、コミュニティへの求心力の維持である。メンバー全員が集まっての歌え踊れの大騒ぎは、娯楽が少ない中で頭が真っ白になるぐらい楽しかったはずだ。それはコミュニティへの求心力と忠誠心の核になるだろう。それは社会生活を生き残り戦略の一つとしてしまった現生人類の重要なツールだったに違いない。
 高校時代、手先が不器用で楽器をうまく操れない私には、音楽の授業は苦痛でしかなかった。こういう内容の授業だったら、もう少し音楽の授業に興味を持てたのになあと率直に思う。で、著者の生年をみると、私の一つ上でしかない。同時代人だ。彼が例に挙げるビートルズ、ローリングストーンズ、カーペンターズ、ルイ・アームストロング、コルトレーン、スティービー・ワンダー、レッド・ツェッペリン、その他たくさんの例は、私の中学から高校にかけて最も音楽に興味を持っていた時代にラジオから聞こえてきた音楽だった。したがって、当時高校生だった著者はまだこんな研究を将来するなんて想像していなかったに違いない。今の高校生に脱線話で聞かせてあげるときっと喜ぶに違いない。
 さて、今やパソコンが速くなって、音源のスペクトル解析が実時間でできるようになった。シンセサイザーもPCプログラムで簡単にできる。こうなれば、同じ高校の軽音楽部とかブラスバンド部と組んで科学部が、いろんな解析や音楽作りに挑戦してみるのは楽しいかも知れない。

如何にして対人接触8割減を達成するか?

 緊急事態宣言が1ヶ月程度延長されました。新規感染者の数は頭打ちになりましたが、まだ、退院者に比べて新規感染者の数の方が多く、医療機関への負担増が懸念されています。退院者が新規感染者を上回り、感染者がネットで減るようになるまでもう少しの辛抱です。
 しかし、例えば6月初旬からの活動再開となった場合に向けて、そろそろ私たちも準備を始める必要があります。3月に比べて、対人接触8割減を維持しつつ、社会・経済活動をどこまで回復し、それを維持できるかが勝負です。その具体的な方策を考えましょう。これは政府の仕事ではなくて、現場に近い私たち一人一人の仕事と思います。
 私なりに考察してみましたので、参考にしてください。
1.理論と目標
 人と人の接触は人の密度の自乗に比例することを理解するする必要があります。そのことは、人口密度の高い大都市(東京、大阪、横浜、大阪)に、新規感染者の発生が集中しがちであることが示しています。この認識は、政府の専門家委員会が言う、三密を避けろという指示にも合致します。
 この場合、職場の面積と構造、人のワークフローが与えられたとすると、新規感染イベントの発生率Iは
I=k*f*N^2
と書けます。ここでNは出勤者の数、fは保因者の割合です。kは感染効率で、職場の面積と構造、そして人のワークフローの関数です。政府から要求されているのは、この式の右辺を非常事態宣言が発出される前の2割にせよ(2020年3月末)ということだと理解しましょう。ここで、fは制御できない値なので、なんとか努力して、k*N^2を2割に下げることを目標にします。これは、
・出勤者数Nの半減
・感染効率kの7割減
で達成できます。このとき、新規感染者イベントは、0.083倍にまで抑制されます。もし、上の式のN依存性が二乗でなく単純比例だった場合でも、0.15倍への抑制となり、8割減の要求は達成できるという意味で、頑健な結論です。
 それぞれをどのように実現できそうかを以下に考察します。
2.出勤者Nの半減
 雇用者の半分を自宅勤務することで、出勤者数を半分にします。ただし、同じ人間をずっと自宅勤務にすると、労務管理や情報シェアに問題が出てきそうなので適切なローテーションをとる必要があると思います。その具体的方法は、それぞれの組織の事情を考慮して計画をたてて実行すればいいと思います。
 私が主催している研究室では、雇用者を月水金組と火木土組に分けたいと考えています(まだ私の希望です)。前者は火木が自宅勤務日、後者は月水金のうち二日を自宅勤務日にします。自宅勤務の効率を出勤の場合の70%として、ある一人の1週間の実効仕事時間は1日を8時間として、8x3+2*8*0.7=35.2時間となり、週休二日の40時間の場合の88%となります。この際、これぐらいの仕事時間低下は仕方がないと考えます。テレコンの利用などで、この値を100%に近づける可能性は十分にあります。本来は休みのはずの土曜に出勤していただく人がいるので、本人とよく相談し合意を得た上で、人事部の承認をとって実施したいと思います。
 このようにすれば出勤者の半減はそれほど無理なく達成できるし、今後事態が長期化しても研究活動をほぼ従来通りに維持可能だと私は考えます。
3.感染効率kの7割減
 三密を避けろという政府の方針に従い、お互い数メートル以内に近づく機会と、物を通じての接触感染を最小限にする以下の方策をとります。
1)入構手続きの簡素化
 入構手続きに手間取り渋滞が発生すると、そこで密集が発生し感染事件が起こる可能性がある。入構手続きはできるだけ簡素化し、渋滞が起こらないようにする。
2)構内のドアの開放
密閉をさけることと、ID認証パネル、ドアノブにおける接触感染の危険を低減するため、構内の建物のドアをできるだけ開放する。特に、皆が使うトイレの入り口のドアはストッパで開放にロックし、ドアノブに接触することなく出入りできるようにする(トイレの個室ドアは例外とし以下で対応する)。
3)トイレ便器、個室ドア、鍵の清掃と消毒の徹底
 午前1回、午後2回の一日三回の清掃・消毒を実施する。
4)テレコンの多用
テレコンを活用して直接面会の機会を削減する。そのためのインフラ整備、セキュリティ確保も重要である。
5)空気清浄機の導入
光触媒などを使った抗ウィルス機能を持った空気清浄機を導入する。
6)マスク、手洗いの徹底
7)食堂などの座席配置の工夫
このうち、6),7)はすでに4月初旬の時点で多くの組織で実施されていました。長期的には、5)が重要かもしれません。
4.通勤時の対策
別途、通勤時の感染対策をとる必要があります。上記の対策を採ったとき、より危険なのは、三密が避けられないラッシュアワーの公共交通機関内となるからです。そこで、
1)ラッシュアワー(朝7時30分から9時、夕方17時30分から18時30分)を避けて通勤できるよう、-2時間、+2時間のフレックス勤務を推奨する。
2)公共交通機関を使わない通勤手段(徒歩、自転車、車)を奨励する
などの対策をとるべきだと思います。
 別途、交通機関(鉄道、バス、飛行機)は、抗ウィルス機能を持った空気清浄機の早期導入を検討していただきたいです。もちろん、駅のトイレの清掃も重要です。電車から降りたときにまずはトイレに行って手と顔を洗いたいと考えるのが人情ですが、そこが汚染されていたら目も当てられません。
 最後に長時間の三密状態が強いられる国際便の飛行機については、早期診断キットによる診断を全搭乗者について実施して、保因者を機内に入れない工夫が必要です。

世界の見方の転換1,2,3

世界の見方の転換1,2,3
山本義隆 2014年 みすず書房

 天動説から地動説へのいわゆるコペルニクス的転回がいかにして起こったのかを詳細に記述する労作である。結論から言うと、コペルニクス的転回は一日にしてなったわけではない。コペルニクスの前に、地動説を構成可能にした多くの努力があり、さらに惑星運動論を超えて、天体力学に昇華させるためにさらに数段の飛躍が必要だった。
 西洋における天体の運動を理解しようとする学問的な試みは、15世紀にプトレマイオスの著作の翻訳から始まった。ハプスブルク家が設立したウィーン大学の教授となったポイルバッハは、プトレマイオスの「数学集成」をほとんど暗記するまで読みこなし、惑星の運動に関する一連の講義を行った。彼の死後1472年に、彼の弟子のレギオモンダヌスが自分の講義ノートを元にドイツ語で「惑星の新理論」と題して出版する。これは1653年までに56版を重ねイタリア語、フランス語、スペイン語、ヘブライ語にも翻訳されたほど多くの読者を持った教科書となった。これには、惑星や月・太陽の軌道についての木版の図版が付されていた。全く同一の図が付された書籍が数百の単位で発行できるようになったことは大きい。それまでの手写本では写本の度に必ず変形や過誤が加わって劣化していた。ドイツで発明された印刷術は、この意味で学問の発展に大きな貢献をしている。
 プトレマイオスの惑星運動論のほぼ完全な理解が得られると、その問題点が見えてくる。ポイルバッハとレギモンダヌスの師弟は、それを指摘し始めた。また、その解決のため、より正確な惑星の位置の観測を行う努力を始めた。当時、主流であったスコラ学徒やルネサンスの人文学者は、学問を進歩するものとは考えておらず、いにしえの哲学者、具体的にはアリストテレスの主張を無批判に受け入れていた。一方、ポイルバッハとレギモンダヌスは、むしろ現実の観測との一致によってのみ理論の正しさが検証されること、理論の改良と観測の検証の繰り返しにより学問が先人の到達点を超えること、つまり「科学革命」が可能であると考えた。
 レギモンダヌスは、ニュルンベルグに移動し、天体観測と出版事業に乗り出した。当時ニュルンベルグは、精密機械製作の技術が高く、高精度を要する観測装置の製作に便利だった。ここでレギモンダヌスは、自ら観測製作にあたり観測も行った。また、自分自身の「エフェメリデス(天体位置表)」、プトレマイオスの「数学集成」や「地理学」の新訳、ユークリッドの「原論」、アポロニウスの「円錐曲線論」の正確な図を付しての出版を企画していた。さらに、印刷術そのものの革新にも貢献していたと言われる。早世したレギオモンダヌスの衣鉢を継いだのは、彼の弟子であり共同研究者のヴォルターだった。彼はニュルンベルグの商人であり、商人らしい几帳面さで、正確な観測を行い記録した。このように、書籍を前に思索にふけるだけでなく、自ら手を動かす実際家が、学問の進歩の最前線に現れるようになった。
 1472年レギオモンダヌスが「惑星の新理論」を出版した年に生まれたコペルニクスは、上記の書籍を読んで学者として成長し、その上に自分の新しい理論を作った。彼の主著である「回転論」は1543年に出版されている。彼が問題とした点は、プトレマイオスが複雑な惑星の運動を表現するために導入した周転円パラメータの非独立性である。各惑星のパラメータは本来独立であるべきなのに、太陽のパラメータと同じとしなければならないもの一部存在する。コペルニクスは、これは観測者が乗っている地球の運動パラメータが、各惑星の動きに見かけ上反映されているだけで、視点を不動点である太陽に移せば、地球を含めた各惑星が完全に独立なパラメータで記述できることに気づいた。これがコペルニクスの地動説である。地動説のよいところはもう一つある。太陽を中心として公転する水、金、地、火、木、土の六惑星の公転周期が明らかになり、公転周期の短い順に太陽から近い軌道をとるとされたことだ。水星と金星が太陽に近い軌道を持っているからである。これにより、現在まで続くほぼ正しい太陽系の描像が固まった。
 一方、彼は、惑星の運動を円軌道の重ね合わせで表現することに固執した。神が作った天上の動きは円でなければならないという、アリストテレス以来のスコラ哲学の常識にとらわれていたのだ。この時代、各惑星が透明な地球儀のような剛体の中に埋まっていて、それが一つ軸の周りに回転しているという思い込みがあった。天体が地上に落ちてこないのかが不思議だったのだろう。この固執が彼の理論の精度を制限した。
 天上は、地上とは全く違った神の法則で支配され、永劫不変であるというアリストテレス学の体系は、その後発見された天体現象で否定された。まず、1531年に現れた彗星である。これは後にハレー彗星と名付けられた。この彗星が遠隔地点でほぼ同方向に見えたことから、アリストテレスが言うような大気内の現象ではないことがわかった。さらに1577年に現れた彗星の詳細な観測が後述のチコにより行われ、それが少なくとも月よりも遠い天体現象であることがはっきりした。また、彗星の尾が常に太陽と反対方向に伸びていること、彗星の動きが、惑星のような黄道面近くの円軌道から全く違うことが明らかになった。これらにより、上記のような惑星が埋まった剛体回転球は存在しないのではないかとの見方が広まった。
 次に、1572年の新星(現在はチコの超新星といわれている)が周りの恒星と全く同じ日周運動を示し、全く視差がなかったことから恒星界の現象と考えざるを得なくなった。さらに追い打ちをかけるように、1604年の新星(ケプラーの超新星)も同様だった。天上の世界の最たるものである恒星天でも星が生まれたり消えたりするという発見は、アリストテレス的世界観を根底から破壊した。
 このような天界の新現象の観測を主導したのはデンマークのチコだった。彼は、デンマーク国王の援助を受けて、ヴェーン島に二つの観測塔、居住空間、図書館、実験室、観測機器製作のための工房、印刷工房や製紙工場を備えた観測基地で1572年から1597年まで20年余に渡って観測に没頭した。大型の観測装置を用い、新しい観測方法を工夫した彼の観測位置精度は裸眼のものとしては限界に近いまでに向上した。そこで得られた惑星の位置情報の膨大なデータが、次世代のケプラーの飛躍をもたらした。また、太陽が水星と金星を従えて、静止した地球を中心に公転しているとする独自の太陽系モデルを提案している。この場合、金星の軌道と火星の軌道がどうしても交錯してしまうので、剛体が回転する球殻が重なった宇宙モデルには無理があるとの結論に至っている。
 このようにして、アリストテレスの呪縛から解き放されたケプラーは、チコが観測した火星の位置の解析から、惑星の軌道が円でも円と周転円・離心円の組み合わせでもなく、太陽を一つの焦点としてもつ楕円であることを導き出した。さらに、太陽を中心として面積速度一定の法則(ケプラーの法則)を発見した。これらの結果は1609年に「新天文学」として出版された。1472年のポイルバッハの「惑星の新理論」出版からケプラーの「新天文学」の出版までの137年は、アリストテレス的な体系の呪縛から脱出するのに必要な時間だったということになる。
 なお、面積速度一定の法則は、太陽に最も近い地点で惑星の速度が最大になることを意味しており、惑星は何もない空間の中で太陽からの何かの影響力が惑星の運動を駆動されているという見方に力を与えることになった。この問題は、万有引力を仮定したニュートンによって最終的に解決されることになる。
 以上をまとめると、コペルニクス的転回は以下の5段階を経て行われた。
1) プトレマイオス理論の受容(ポイルバッハ)
2) 上記理論への批判とそれを補うための観測(レギオモンダヌスとヴォルター)
3) 地動説の提案(コペルニクス)
4) 高精度で包括的な観測によるアリストテレス的世界観の崩壊(チコ)
5) 天体力学の構築(ケプラー)
つまり、コペルニクス的転回は、ほぼ一世代(約30年)に一回のブレークスルーが5つ重なってようやく得られたものだ。その間当事者たちの煩悶(キリスト教の分裂と争いがそれを増大した)とそれを克服するための努力は並大抵ではない。そこで得られた新しい情報の迅速で正確な伝搬と議論するコミュニティの形成を、出版事業が支援した。
 著者は膨大な量の文献を読み、上記過程の一々を検証しつつ再構成している。良著だ。この本はぜひ高校物理の先生に読んでほしいと思う。三部構成の本書は、付録として主要な結論の証明が付置されている。それらは中学で習うユークリット幾何学で理解できる。コンピュータで武装した現在の高校生が、上記過程の一部でも追体験できるような教材を是非作っていただきたい。

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