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リボフラビン生合成経路:Biosynthesis pathway for riboflavin

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リボフラビンの生合成経路は図1にまとめられているように、1分子のGTPと二分子のリボース5リン酸から始まる(Fischer and Bacher 2005)。GTPシクロヒドロラーゼIIが、アミダゾール環からギ酸、GTP(1)の側鎖から二リン酸を放出して、2,5-ジアミノ-6-リボシルアミノ-4(3H)-ピリミジノーネ5'-リン酸(2)を生成する。2位のアミノ基の水分解性放出とリボース側鎖の還元、そしてリン酸の脱離により5-アミノ-6-リビチルアミノ-2,4(1H,3H)-ピリミジンジオーネ(3)を作る。ピリミジン派生物(6)は、3,4-ジヒドロキシ-2-ブタノン-4-リン酸(8)と縮合して、6,7-ジメチル-8-リビチル-ルマジン(9)となり、最終的な産物のリボフラビン(10)となる。

GTPシクロヒドロラーゼIIはGTPを2,5-ジアミノ-6-リボシルアミノ-4(3H)-ピリミジノーネ5'-リン酸(2)とギ酸、無機ピロリン酸に変換する。その反応機構は、まず、ピロリン酸の放出に際して、二つの炭素‐窒素結合が切断されてギ酸が作られ、イミダゾール環が開いてピリミジンが作られる(2)。この酵素は、サブユニットごとに1個の亜鉛イオンを含んでいる。それに配位するシステイン残基(Cys54、Cys65、cys67)を置き換えると、触媒活性が消失し、亜鉛イオンが結合しなくなる。その三次元構造はまだ決まっていないが、亜鉛の関与が強く示唆
されている。

一方で、GTPシクロヒドロラーゼIは、テトラヒドロ葉酸とテトラヒドロプテリンの生合成経路の最初に現れる酵素である。それは、GTPシクロヒドロラーゼIIと同様に、亜鉛イオンが二つのチオール基(Cys110とCys181)および一つのヒスジチン(Hys113)にキレートされており、二つの炭素・窒素結合の加水開裂とその結果としてのギ酸の放出に必須である。もう一つのヒスチジン(His112)がさらに、水分子を介して接触している。このGTPシクロヒドロラーゼIIの三次元構造はまだわかっていないが、GTPシクロヒドロラーゼIの三次元構造はすでに決められており、ホモダイマーを形成していることが分かっている。

植物と多くの真正細菌は、GTPシクロヒドロラーゼII領域と3,4ジヒドロキシ-2-ブタノン4リン酸合成酵素が融合したタンパク質を持っている。この融合酵素がリボフラビン合成経路の最初の部分を担っている。

Fischer, M. and Bacher A. 2005, Biosynthesis of flavocoenzymes, Nat. Prod. Rep., 22, 324-350.

初期進化における核酸様補酵素の役割: Role of Nucleotide-Like Coenzyme in Primitive Evolution

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すべてのリボヌクレオチドもしくはヌクレオシド二/三リン酸は補酵素として、そしてアミノアシル基、リン酸基、グリコシル基、リン脂質前駆体のキャリアとして様々な代謝反応に関与している。Kritsky and Telegina 2004は、ヌクレオチドに似ているが少し違う化合物が補酵素として様々な代謝経路で働いていることを指摘している。それらは、ヌクレオチドと同様に、正に帯電した複素環を持つ「頭」、中性の首、さらに負に帯電した尾が結合した構造をしていることを指摘している(図1)。これらには、フラビンモノヌクレオチド(FMN)、モリブドプテリン、ピリドキサール燐酸、チアミン二燐酸(TDP)、6,7-ジヒドロネオプテリン三燐酸(ビオプテリンの前駆体)、そして、ニコチン酸アミド一燐酸などがある。

ニコチン酸アミドとピリドキサール補酵素では、正に帯電した「頭」はピリミジン環であり、チアミン二燐酸補酵素では「頭」はチアゾール環と共役したピリミジン環である。FMNと他のフラビン類は複素環を持っている。プテリン補酵素は、ビオプテリンとモリブドプテリンや葉酸と同様、複環式塩基としてプテリンを持っている。

「首」は、NMN+とFMNの場合はリボースもしくはリビトールであり、チアミン二燐酸とピリドキサール燐酸の場合は、短い脂肪族鎖である。ビオプテリンのようなプテリンでは、水酸化された脂肪鎖構造が「首」に当たっている。モリブドプテリンでは、チオール化、水酸化されたブタン鎖が「頭」と燐酸基の「尾」をつないでいる。もっとも複雑な補酵素である葉酸では、プテリジン基が負に帯電したグルタミルもしくはオリゴグルタミルの「尾」をp-アミノ安息香酸(PAB)がつないでいる。

ニコチン酸アミドアデニンジヌクレオチド(NAD+)、ニコチン酸アデニンジヌクレチド3'-燐酸、フラビンアデニンジヌクレオチド(FAD)、そしてモリブドプテリンを含むジヌクレオチドは、一つの補酵素が、普通のリボ核酸と結合したもので、ジヌクレオチドに準ずるものである。また、これらの補酵素は、RNA合成酵素などの働きで、RNAの端に共有結合されることがある。

ヌクレオチド様補酵素は、そのアポ酵素の中で、普通はあまり反応性が高くないが、光で励起されるとその反応性が高くなり、非常に多くの反応に参加するようになる。核酸塩基が吸収する250-280nmの紫外線の他に、フラビン、プテリンそして還元型ニコチン酸アミドは、300-400nmの紫外線を吸収する。フラビンはさらに、500nm付近の短波長可視光で励起される。励起された補酵素の一重項状態は、効率よく三重項状態に変換される。後者は、溶液中で他の分子と相互作用するので、前生物学的な化学の観点からより興味深い。フラビンとプテリンの三重項の寿命は0.1-1.0秒にまで達する。

フラビンの中間酸化還元電位E’0はー0.22Vでありかなり強い還元剤としてふるまう。しかし、三重項状態に遷移したフラビンは、対応する酸化還元電位が+1.85Vに移る。つまり非常に求電的な性質を持ち、様々なかなり高い酸化還元電位を持っている物質からも電子を引き抜ける。そのような反応は孤立ラジカル機構を含んでおり、反応性の高い代謝的生産物を形成する。それらは、ジヒドロフラビンやジヒドロプテリンもしくはテトラヒドロプテリンである。テトラヒドロプテリンは強い還元剤(E'0=-0.5V)で、光子によって励起された三重項状態では、さらに電子に2.50eVのエネルギーを獲得する。

Fe3+-チトクロームbのような電子受容体の存在下で、励起されたフラビンとプテリンは電子供与体から受容体への電子の受け渡しを触媒する。人工の脂質膜に埋め込まれた親油性リボフラビン派生物は、酸化還元透過物の膜を通した輸送を光を使って行う。

還元された分子の光化学は酸化型の補酵素と違う。励起されたジヒドロプテリンは、電子受容体として機能し、テトラヒドロ形に変わる。還元型のジヒドロフラビン分子の励起された一重項状態は、DNAフォトリアーゼの中で、電子の供与体として働く。励起されたNADHとNADPHは強い還元剤として働く。無酸素化で、それらはフェロドキシンとメチルビオロゲンを還元する。非励起ニコチン酸アミドの酸化還元電位は、-0.32Vでフェロドキシンのそれは-0.43Vであり、メチルビオロゲンの還元の結果できるジヒドロピリジルのそれは-0.79Vである。つまり、還元型ニコチンアミドは光を使って上向き電子移動を行っている。

フラビンとプテリン補酵素は、生物の紫外線(UV-AとUV-B)および短波長可視光に対する生理学的反応を仲介する広い範囲の光子受容体の発色団として働いている。還元型のニコチンアミド補酵素は、ヒドロゲナーゼのような酵素の活動度を制御している。補酵素が結合した光センサーは構造的に異なった、4つの遺伝子族を構成している。最初のグループは、DNA光修復酵素で、UVで損傷を受けた核酸分子の修復を行う。隣り合った(ほとんどはピリミジン)塩基のくっついて二量体となってしまったシクロブタンを光のエネルギーを使って引き離す。その遺伝的相同体であるクリプトクロムは、植物と動物の発達を媒介する色素である。これらのタンパク分子は二つの発色団を含んでいる。最初の発色団は、酵素の活性中心に位置している還元型FAD(FADH2)で、もう一つは光捕獲体である5,10-N-メチール-テトラヒドロ葉酸(MTHF)である。

第二のグループは、菌類の発生を支配するWhite Collar 1(WC-1)感光体や、植物の光制御体フォトトロピンのである。これらはFMNと結合するPASとLOV領域を持っている。フォトトロピンでは、イソアロキサジンの4位の炭素原子のLOV部のシステイン残基の一つへの付加反応への励起FMNの発色団としての関与が示されている。この付加反応が、タンパク質の構造変化を引き起こしている。これらのペプチド鎖は、励起フラビンが駆動する反応で制御されており酸化還元検出タンパクに起源していると考えられる。

第三のグループはLOV(PAS)部位を含むタンパクと同様に、真核生物の硝酸塩還元酵素は、FAD発色団の光化学励起によって制御されている。

最近になって発見された第4のグループは光によって活性化されるFMNを含んだアデニリルシクラーゼである。

これらの4つのグループには、基本構造に共通性がないので同一系統とは思えない。独立に多系統として成立したと考えられる。

プテリジン塩基はプリン塩基と構造が似ていて核酸の構造に取り込まれたときは、対合する塩基と水素結合を形成する。また、フラビンのケトン基とニコチン酸アミドのアミノ基も核酸塩基と対合して水素結合を形成することが報告されている(図2)。生物の誕生時に最初に成立したと考えられるRNAワールドでは、これらの補酵素もRNAの一部として取り込まれRNAの酵素活性の多様化に寄与していた可能性がある。

Kritsky, M.S. and Telegina, T.A., 2004, Role of Nucleotude-like
coenzimes in primitive Evolution, In Origions: genesis, evolution, and diversity of life, edited by Seckbach, J. Springer, 215-230.

カロテノイド合成経路におけるリコペンシクラーゼの進化: Evolution of Licopene cyclase in the carotenoid synthesis pathway

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微生物のロドプシンは、膜貫通型のαヘリックスを7つもつオプシンと光感受性のある補因子レチナールの共有結合により作られている。古細菌において、ロドプシンは光で能動駆動されるイオン輸送機構および走行性のセンサーとして働いている。好塩古細菌の一種であるHalobacterium salinarumは、一連のイソプレノイド重合反応で作られるゲラニルゲラニル二リン酸(GGPP)を二つ結合してファイトエンとし、さらに不飽和化反応でリコペンを得る。リコペンの両端を環化してβ-カロテンとなり、それを二分してレチナールを得る(図1)。Peck et al 2002は、古細菌類Halobacterium salinarumでは、リコペンからβ-カロテンへの反応を進める触媒リコペンシクラーゼを、crtYと名付けられた遺伝子が司っていることを明らかにした。また、細菌および菌類の対応する遺伝子があることが分かった。

細菌は対応する遺伝子を二つ(crtYcとcrtYd)を持っている。それらはそれぞれ3つの膜貫通部位を持っている。一方、古細菌のリコペンシクラーゼ(crtY)は、細菌の二つのシクラーゼに対応する部位があり、それをつなぐもう一つの膜貫通部位を加え、7つの膜貫通部位を持つ(図2)。菌類のリコペンシクラーゼ(crtYb)はさらに、古細菌のリコペンシクラーゼにファイトエン合成酵素が結合している。

これらを総合すると、以下のような進化シナリオが考えられる。まず、細菌において、ホモ二量体リコペンシクラーゼの遺伝子重複で、二つの別のリコペンシクラーゼが作られた(crtYcとcrtYd)。次に、それらが一つに融合して、古細菌のリコペンシクラーゼ(crtY)が作られた。さらにこれにファイトエン合成酵素が融合して菌類のリコペンシクラーゼ(crtYb)が作られた。

Peck, R.F, et al. 2002, Identificqtion of a Lycopene β-Cyclase Requiered for Bacteriorhodopsin Biogenesis in the Archaeon Halobacterium salinarum, Journal of Bacteriology, 184, 2889-2897.

膜結合型[NiFe]ヒドロゲナーゼの起源と進化:Origin and Evolution of Membrane-bound [NiFe] hydrogenase (MBH)

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電子伝達系の複合体I、もしくはNADHキノン酸化還元酵素(Nuo)は、現生生物の呼吸鎖の一部をなしており、嫌気性微生物のエネルギー保持[NiFe]ヒドロゲナーゼと密接な進化上の関係を持っている(fig 1)。すべての生物の中で、複合体Iのキノン結合サブユニットNuoDは、膜結合ヒドロゲナーゼ(MBH)の中のH2放出[NiFe]含有触媒サブユニットMbhLと最も近い関係にある。MBHは電子供与体としてフェロドキシン(Fd)を、NuoはFdもしくはNADHを用いる。

Schut et al. 2016によると、これらの酵素が共通祖先ARCから進化したと考えられる(fig 2)。MBHは、最も単純な呼吸複合体で、プロトンを還元して水素ガスにしつつFdを酸化し、さらに、放出された自由エネルギーを保持するために膜を通してプロトンを運ぶ。MBHは、5つのサブユニット(MbhJ-N)からなるヒドロゲナーゼモジュールと、9つのサブユニット(MbhA-I)からなるNa/proton対向輸送モジュールからなる。MBHは[NiFe]ヒドロゲナーゼの共通祖先ARCと膜貫通サブユニットが結合して生まれた。それが更に進化して最終的に呼吸鎖の複合体I、Nuoになったと考えられる。

Schut, G.J. et al. 2016, The role of geochemistry and energetics in the evolution of modern respiratory complex from a proton-reducing ancester, Biochemica et Biophysica Acta, 1857, 958-970.

単純なエネルギー生産反応:輸送と結合した陽子の還元:A simple energy conserving system: Proton reduction coupled to proton translocation

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生物は、酸化的リン酸化反応を使って、一連の膜結合電子伝達複合体で陽子駆動力を作り出し、ATPを合成する。そのとき最終的には外部の最終電子受容体を還元する必要がある。Sapra et al. 2003は、100℃の環境が最適に生育する古細菌Pyrococcus furiosusは、それとは少し違った呼吸系を持つことを発見した。それは、膜結合ヒドロゲナーゼ一つのみで構成されている。この酵素は、細胞質性の酸化還元タンパク質フェロドキシンから電子を陽子に渡し、水素ガスを作ると同時に陽子を細胞外に輸送する。このことで細胞内外に陽子駆動力を維持し、ATP生産を可能としている。

このような呼吸系を用いると、グリセルアルデヒド3リン酸の酸化の際に、NADの代わりにフェロドキシンに電子を渡すことで、水素の合成によりエネルギを得ることができる。

Sapra, R. 2003, A simple energy-conserving system: proton reduction
coupled to proton translocation, PNAS, 100, 7545-7550.

地震前後の海底地形変化と津波 軟弱な堆積地層の地滑りを警戒

大正関東大地震(1923年)では、伊豆半島東岸から房総半島西岸までの相模湾沿岸各地において、地震発生直後に津波が襲来し大きな被害をもたらした。一方、この地震前後の海底地形の変化が、23年9月1日の地震直後から翌24年1月にかけて調査された。その結果が、水路部(旧日本海軍)によってまとめられている。震災調査報告では次のように記述されている。

 「相模灘で起こった地変のうち最も顕著だったのは海底の陥没である。湾内より大島付近各所でそれが認められるが、最も大きかったのは真鶴岬の沖合から相模灘の中央を南東の方向へ向かって大島の東方に至る延長約30マイル、最大幅約16マイルの広大な海域で、平均72~80メートル、場所によっては180メートル余りの陥没があった。この区域の北端は真鶴岬南東沖4マイルに達し、東端は房総半島洲崎の西方沖合約4マイルに近づき、西南部は大島に接近してその南端は波浮の東方沖8マイル余りの地点に至る」

 この変動は「信じがたいほど大きい」とされ、物理学者の寺田寅彦が注意し、その検討を行っている。その報告に、付記として、相模湾の水深の大きな変化は、海底斜面堆積物の滑り落ちや乱泥流による谷の洗浄作用によるものではないかという地質学者の小川琢治(湯川秀樹の実父)の説に言及している。

 私は、最新の海底地形図と照合した結果、水深の変化と海底地形と明らかな対応が見られることを見いだした。水深変化の中で最も著しいのは「真鶴岬の沖合から相模灘の中央を南東の方向へ向かって大島の東方に至る陥没」である。

 これがほぼぴたりと相模舟状海盆(相模トラフ)と一致している。この海盆は相模トラフの西北端に位置している。その東南は次第に海底谷を形成し、三浦半島沖で東京湾海底谷、房総半島沖で房総海底谷と合流し、さらに伊豆小笠原海溝の海溝三重点(坂東深海盆)に向かって下っている。

従って、この「陥没」が、相模湾舟状海盆に長年堆積していた軟弱な海底堆積地層が、地震の衝撃で乱泥流(海底地滑り)を形成し一気に海溝三重点に向かって流下した結果と考えられる。つまり、先述の小川の指摘は、詳細な海底地形に照らして十分根拠を持っている。駿河湾口に敷設してあった海底電線が切断されたこと、ほぼ同じ海域で深海魚の死体が多数発見されたことも海底地滑りの発生を示唆している。

 この幅約25キロ、流下長さ約50キロ、厚さ約100メートルの海底地滑りの結果、相模湾内で津波が発生したと考えられる。熱海への津波襲来までの時間が、地震後5~6分と比較的短いこと、津波がまず引き潮から始まったことなども、相模湾内から伊豆小笠原海溝への地滑りが原因であることを示唆している。

 このとき、東京湾内でも多少の海底地形の変化が記録されている。羽田沖から横浜沖にかけての数メートルの水深増加が最も顕著な変化のようである。東京湾海底谷は横浜沖において次第に傾斜と水深を大きくして浦賀水道を抜け、蛇行しながら相模舟状海盆に合流している。横浜沖における水深増加は、東京湾海底谷においても小規模ながら海底地滑りが起こっていた可能性を示唆している。実際、地震直後に館山沖の海中電線が切断されている。また、東京湾内部で1メートル程度の津波を観測している。

同様に三浦半島付近を震源とする元禄関東地震(1703年)では、東京湾内で数メートルの津波を記録している。これは、東京湾海底谷におけるより大規模な地滑りのせいかもしれない。

 多くの産業インフラと居住地が東京湾の海岸に集中して分布する現在、もし元禄地震並みの津波が東京湾内沿岸に襲来したら、その被害の大きさは想像もつかない。今後想定される東京直下型地震における、東京湾海底谷での海底地滑り発生可能性を十分精査する必要がある。

フジサンケイビジネスアイ 高論卓説 2017年2月17日 許可を得て転載

銀河中心超巨大ブラックホールの形成シナリオと地上重力波検出器によるブラックホール合体イベントの検出頻度: Formation scenario of supermassive blackhole at the galactic centers and detection frequency of blackhole-merger events by ground-based gravitational-wave detectors

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Shinkai, Kanda, and Ebisuzaki (2017)は、銀河中心の超巨大ブラックホールが、中間質量ブラックホールを起点とした階層的合体で作られるというモデルを基礎において、KAGRAもしくはadvanced LIGO/VIRGOのような地上重力波アンテナで検出できるイベント数を評価した。第二世代地上検出器の感度は10Hzから上の周波数に十分な感度を持つので、原理的には2千太陽質量以下のブラックホールのリングダウン重力波を検出可能である。特に、KAGRAは天候や人工的活動による地面振動ノイズが少ない地下に設置されているので、有利なはずだ。この能力を使うと、超巨大ブラックホールが中間質量ブラックホールを起点とした一連のブラックホール合体イベントの数を確認できる。宇宙における銀河の数密度が与えられており、そのすべてが超巨大ブラックホールを持っていることを使えば、理論的にブラックホール合体イベントの発生頻度が評価できる。これと、観測数を比較すれば、超巨大ブラックホールの形成シナリオを検証できる。

検出の信号・ノイズ比の敷居を30とすると検出可能な重力波合体イベントの数は、最も楽観的な場合で年間20個に上る。地上の重力波アンテナの感度曲線を考慮すると、全質量が60太陽質量になるようなイベントが最も多く検出される計算になった。このことは、最初に検出されたイベント(GW1501912)が全質量62太陽質量であったことと整合的である。ただし、超巨大ブラックホールが、ブラックホールどうしの合体で成長したというEbisuzaki et al. 2001が提唱したシナリオに従えば、より大きな質量、例えば全質量が100-150太陽質量のイベントもかなりの頻度で存在しなければならない。特に低周波数の重力波イベントの検出努力が重要であり、超巨大ブラックホールの形成過程の解明に大きなインパクトを与え
る。

1) Shinkai, H. Kanda, N., and Ebisuzaki, T. 2017, Gravitational Waves from Merging Intermediate-mass Black Holes. II. Event Rates at Ground-based Detectors, Astrophysical Journal, 835, 276-283.

2) Ebisuzaki, T. et al. 2001, MISSING LINK FOUND? THE “RUNAWAY” PATH TO SUPERMASSIVE BLACK HOLES, Astrophysical Journal Letters, 562, L19-L22.

「冒険」を「ビジネス」に変えた偉業 天文学から航海術への「技術移転」

 ジェームズ・クックの航海日誌を読了した。これは、エンデバー号による1768年から71年の足かけ3年にわたる第1回の太平洋航海に関するものである。航海の目的は69年6月3日に起こると予測された金星の日面通過の観測による金星・太陽間の距離の測定だったという。このために天文学者のチャールズ・グリーンが航海に同行した。日誌の過半は、その日の天候、風向き、天測による緯度・経度の記述で占められている。当時の風帆船の航海日誌としては当然である。

さて、天測による経度・緯度の決定はどのように行うものだろうか。まず緯度は、太陽や星の南中高度(南半球では北中高度)を測定すれば、比較的正確に決めることができる。一方、問題は経度だ。正確な時計があれば天体の南中時刻から決めることができるが、温度とゼンマイの巻きの強さについての補償機構を持ち、ゼンマイを巻く間も時を正確に刻み続ける工夫をしたクロノメーターは、まだ実績がなかった。

時間測定1秒の誤差がおおむね200キロ(赤道上)の誤差に対応する。59年に製作されたクロノメーターH4は、イギリス・ジャマイカ間の航海の81日間で8.1秒しか狂わなかったという記録があるから、次第に精度が上がってきたとはいえ、クロノメーターに全幅の信頼をおけなかったに違いない。

クックが信頼を置いたのは、月と太陽、もしくは月と星の相対角距離の測定による経度決定法だった。月までの距離は38万4000キロであるから、0.1秒角程度の精度で月と他の天体の間の角距離を測って、理論的に求めた月の位置と比較すれば、船が地球上のどのあたりにいるかが200キロ程度の精度で決まることになる。

72年に始まる第2回航海ではクックもクロノメーターを採用している。多分、条件の良いときに天測をしてクロノメーターの誤差を補正しつつ両者を併用して用いたに違いない。

それにしても常に搖動する船上での天測は困難を極めたことは容易に想像できる。同乗した天文学者のチャールズ・グリーンが天測に専従し、航海士らに懇切に教えたおかげで、天体位置表などを駆使した天測からの経度の決定法を航海士らが身に着けた。

その結果、航海の必要上十分な0.5度以下の精度での経度決定が日常的に達成されるようになったという。この天文学から航海術への「技術移転」により、英国海軍および商船隊は他国に比べて格段の有利さを持ったに違いない。これが、「太陽が沈まない世界帝国」を築き維持するのにどれだけ役に立ったか想像に難くない。このように考えると、当時、天文学は非常に重要な実学だったことになる。英国ではどの大学でも天文学の講座があって幅を利かせているが、その起源はこの辺にあったのかもしれない。

航海日誌では、目印となる主要な岬や山頂の形と見える方角を、それを観察した経度・緯度とともに、綿々と記している。これらの情報があれば、続く航海者が経度・緯度を測定しつつその近くに来たときに見上げれば、目標の岬や山頂が見えるという具合になるはずだ。

こうなると手探りで進むよりずっと効率が良くなる。実際、クック自身かつて訪れた場所を再訪するときには、経度・緯度からそろそろあの山がこの方角に見えるはずとあたりをつけて船員をマストに登らせている。

このクックの航海で冒険の時代は終わったということもうなずける。航海が命がけの「冒険」から、ある程度計算できる「ビジネス」に変わった。その変化を導いたのが、天測による経度・緯度決定技術だったということになる。

フジサンケイビジネスアイ2017年2月9日
許可を得て転載

大正関東地震(1923)における相模湾内海底地滑りと津波の発生について: Land slides in Sagami bay at the Taisho Great Kanto Earthquake and Tsunami genesis

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大正関東地震(1923年)においては、伊豆半島東岸から房総半島西岸までの相模湾沿岸各地において、地震発生直後に津波が襲来し大きな被害がもたらした。その発生原因について考察する。

1.津波襲来状況と相模湾の海底地形変化調査
津波襲来状況は、神奈川県水産試験場によって調査され調査報告書以下のようにまとめられている(吉田ら2012)

「西部真鶴付近にあっては激震後5 ~ 6 分にして、東部三浦郡沿岸においては三崎付近に早く4 ~ 5 分の後、長井鎌倉等北上するに従って遅れて江ノ島付近にては約10 分後であった。各地とも一様に初め強烈なる退潮が生じて沿岸の海底が露出した後、前後2 回若しくは3 回津波が襲来した。その高さは各地とも2回目が最大で、真鶴方面では6m に達した。熱海伊東間最も烈しく激震後5 ~ 6 分にして多少の退潮があった後、3 回津波が来襲して、その高さは6m から10.5m に達した。川奈崎以南は次第にその大きさが減少して、下田では、激震後約20 分に高さ1.8m ~ 2.1m のものが押し寄せた。」

一方、大正関東地震(1923年)の際の海底地形の変化が、1923年9月1日の地震直後から翌年1月にかけて調査された。その結果が、水路部によって水路要報にまとめられている(水路部1924、Fig.1)。水路要報では図が付されているだけで説明は一切ない(吉田ら2012)が、震災調査報告では次のように記述されている。

「相模灘で起こった地変のうち最も顕著だったのは海底の陥没である。湾内より大島付近各所でそれが認められるが、もっとも大きかったのは真鶴岬の沖合から相模灘の中央を南東の方向へ向かって大島の東方に至る延長約30 マイル、最大幅約16 マイルの広大な海域で、平均72 ~ 80m、場所によっては180m 余りの陥没があった。この区域の北端は真鶴岬南東沖4 マイルに達し、東端は房総半島洲
崎の西方沖合約4 マイルに近づき、西南部は大島に接近してその南端は波浮の東方沖8 マイル余りの地点に至る」

この変動は「信じがたいほど大きい」とされ、寺田寅彦(1924)が注意し、その検討を行っている。その報告の後尾に、付記として、相模湾の水深の大きな変化は、海底斜面堆積物の滑り落ちや乱泥流による谷の洗浄作用によるものではないかという小川琢治(湯川秀樹の実父)の議論が言及されている(吉田ら2012)。寺田は「必ずしも一般的に浅いところが深くなり深いところが埋もれたという明
白な結果は見られないと指摘したうえで、この論を一概に否定することはなく(後略)」というどちらかというと否定的な評価を下している。

戎崎は、最新の海底地形図と照合した結果、海底地形と明らかな対応が見られることを見出した。地震後に起こった相模湾の水深変は、3つの独立な海底堆積物の移動(地滑り)で概ね説明できる。まず、水深変化の中で最も著しいのは「真鶴岬の沖合から相模灘の中央を南東の方向へ向かって大島の東方に至る延長約30 マイル、最大幅約16 マイルの広大な海域で、平均72 ~ 80m、場所によっ
ては180m 余りの陥没」である。これがほぼぴたりと相模舟状海盆(相模トラフ)と一致している(Fig.2)。この海盆は相模トラフの西北端に位置している。その東南は次第に海底河谷を形成し、三浦半島沖で東京湾海底谷、房総半島沖で房総海底谷と合流し、さらに伊豆小笠原海溝の海溝三重点(坂東深海盆)に向かって下っている。したがって、この「陥没」が、相模湾舟状海盆に長年堆積していた軟弱な堆積地層が、地震の衝撃で乱泥流(海底地滑り)を形成し一気に海溝三重点に向かって流下した結果と考えられる(Fig. 3)。この幅約25㎞、流下長さ(R)約50㎞、厚さ(d)約100mの海底地滑りの結果、相模湾内で津波が発生したと考えられる。駿河湾口に敷設してあった海底電線が切断されたこと、ほぼ同じ海域で深海魚の死体が多数発見された(水路部1924)ことも海底地滑りの発生を示唆している。

次に顕著なのは、相模湾トラフの「陥没」地帯の南東の三浦半島西側沖の領域である(Fig. 4)。この領域は、北西から相模海丘、三浦海底谷、三浦海丘、城ケ島底谷、三崎海丘。東京海底谷、沖ノ山と続く複雑な地形を示す。ここは、「隆起(水深が浅くなる)」と「陥没」が共存しているが、どちらかといえば前者が卓越している。概ね高所(海丘)が「陥没」し、低所(海底谷)が「隆起」する傾向がみられるので、「海丘が崩れて海底谷を埋める」ような堆積物の移動が起こったと考えれば説明できそうだ(Fig 4)。また、地震の地殻変動で、三浦半島西岸は2メートルほど隆起し、多数の土砂崩れが発生したとの記録が残っている。この土砂は最終的には、海に流入しただろうから、隆起傾向が卓越したのは理解できる。この移動が、地震直後に起こったのかもう少しゆっくり数か月かけて起こったのかは、わからない。測量は9月1日から翌年1月までの5か月をかけて行われている。ただし、上記の相模トラフ沿いの乱泥流の後に起こったらしい。というのは、相模トラフの中で、三浦半島(北東)方面からの海底谷(三浦海底谷、城ケ島海底谷、東京海底谷)の出口付近の「陥没」が小さくなっている領域
が存在するからである。これは、乱泥流の通過後、三浦半島西岸および東京湾・沖ノ山方面からの土砂が再堆積した結果ではないかと推察される。実際、現在の詳細な海底地形図を見ると、この領域に海底三角州のような構造が観察される(Fig. 2)。これらの陥没・隆起地域に近い鎌倉への津波の到着が地震の13分後と遅かったのは、この移動が少なくとも津波の主因ではなかったことを意味して
いる。

最後に伊豆大島と伊豆半島(伊東付近)の間の海底も、100メートルを超える水深変化を示している(Fig. 4)。この領域は海丘(たぶん海底火山)と海底河谷が入り組んだ複雑な地形を持っており、概ね高所が陥没し、低所が隆起している。したがって、海丘が崩落して、海底谷を埋める土砂崩れの発生で説明できる。下田への津波の到着は地震発生後20分と遅いので、少なくともこの土砂崩れが、津波の主因でないことが分かる。

地滑りは地震直後におそらく真鶴海丘周辺の急崖の崩壊から始まり、相模トラフに堆積した軟弱な堆積物を巻き込みつつ、約1,000秒(約20分)かけて伊豆大島北方に達し、東京湾方面からの流れと合流しつつ東南東方向に海溝三重点に向かって流下していったと考えられる。

2.記録との比較
地滑りフロントの長さ(L)をその厚さの10倍程度(L=1km)と仮定すると、地滑りで励起される津波の高さΔhは
Δh~dL/R=100×1000/50,000=2 m
となる。真鶴海丘周辺の水深は約300-500mである。最も津波被害が著しかった熱海における津波襲来は

「熱海伊東間最も烈しく激震後五六分にして多少の退潮ありたる後、三回の津波来たり高さ二十尺(6.6 m )乃至三十五尺(12m)に達す」

と記録されている(吉田ら2012)。まず、「まず潮が引いた」という記述は、海岸近くから沖に向かって流下した海底地滑りによる津波の特徴と合致している。次に、浅水波である津波の速度は約70m/sであるので、約10㎞離れた熱海までは
約140-200秒で到達することになる。地滑りが完全に成長するまでに少なくとも1000/50=200秒はかかることを考慮すると、地震発生から津波の襲来まで300-400秒つまり5-6分かかったことはうまく説明できそうである。波高に関しては、沖合で2mの津波が地形効果による波高の増幅により6-12mとなったと考えられる。つまり、海底地滑りモデルは、記録と波の位相、到達時間および波高の3つの観
点で概ね一致する。

また、熱海には地震後13分後、下田には20分後と遅く到達していることは、相模トラフにおける地滑りが、津波の主因であることを示している。相模湾東北部(三浦半島沿岸)や稲取・下田沖にも海底地形の変動がみられるが、その規模は、相模トラフにおける変動の一桁以上小さい。また、調査が1924年1月までかかっていることから、これらの小規模の変化が地震直後でなく、数か月間かけてゆっ
くり起こった可能性もある。

3.東京湾の海底変化
東京湾内においても多少の変化が記録されている。調査報告書は

「北部沿岸の羽根田燈台付近、大森及び品川地先等において海底の上昇する所があるものの、その他のところでは一般に低下した。中でも低下の著しかったのは横浜より羽根田に至る間及び深川より検見川に至る間で、この間、2 ~ 3 ヶ所を除いて水深が増加し、その最大は船橋地先で3.36m 増した。北部沖合でも36cm
乃至2.52m の陥落が認められた。特に横浜沖合で最大3.6m 沈下したところがあっ
た。(後略)」

と記述している(吉田ら2012)。東京湾海底谷は横浜沖において次第に傾斜と水深を大きくして浦賀水道を抜け、蛇行しながら相模舟状海盆に合流している。横浜沖における陥没は、東京湾海底谷においても小規模ながら海底地滑りが起こっていた可能性を示唆している。実際、東京湾内部で1m程度の津波を観測している(羽鳥2006)。また、東京湾海底谷の相模トラフへの合流部には、東京湾由来の土砂に由来すると思われる、海底三角州が見られる(Fig. 2)。実際、館山沖の海中電線が切断されている(水路部1924、Fig. 1)。

同様に三浦半島付近を震源とする元禄関東地震(1703年)においては、東京湾内においても本所、深川、両国で1.5m、品川、浦安で2m、横浜で3m、稲毛では3 -4m、さらに隅田川の遡上も記録されている(羽鳥2006)。これらは、東京湾海底谷におけるより大規模な地滑りのせいかもしれない。

多くの産業インフラと居住地が海岸線にある現在、もし元禄地震並みの津波が東京湾内沿岸に襲来したら、その被害の大きさは想像もつかない。今後想定される東京直下型地震において、この東京湾海底谷における海底地滑り発生可能性を十分精査する必要がある。

1)Lovholt, F, Pedersen, G., Harbitz, C.B., Glimsdal, S, and Kim, J.2015, On the characteristics of landslide tsunamis, Phil. Trans. R. Soc.A, 373, 20140376.

2)Harbitz, C.B. 1992, Model simulations of tsunamis generated by Storegga slides, Marine Geology, 105, 1-21.

3)水路部,1924, 大震後相模灘付近推進変化調査図,水路要報, 第3年第16号

4)吉田明夫、塚田昌武、小田原啓2012、大正関東地震の際の海底地殻変動、神奈川県温泉研究所報告、第44巻17-28

5)寺田寅彦, 1924, 大正十二年九月一日の地震に就いて, 地学雑誌, Vol. 36,No. 7, 395-410.

6)羽鳥徳太郎(1976):南房総における元禄16年(1703年)津波の供養碑 : 元禄津波の推定波高と大正地震津波との比較, 東京大学地震研究所 地震研究所彙報.
第51冊第2号, 1976, pp. 63-81.

7)池田徹郎1927、伊豆安房方面津浪並びに初島地変調査報告書、神奈川県震災誌 神奈川県

生命起源の原子炉間欠泉モデル: Nuclear Geyser Model of Birthplace of Life

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ミラー・ユリーの実験(Miller and Urey 1959)以来、多くの化学進化実験が行われた。Ebisuzaki and Maruyama (2016)は、冥王代の地球表層にはたくさんあったはずの自然原子炉が生命構成分子を豊富に安定に供給する生命誕生の環境を作ったとと考えている。1972年に自然原子炉の化石がアフリカのガボン共和国オクロで発見されている。それは、水を減速材として用いる核分裂原子炉であった。水が浸入して核分裂連鎖反応が臨界に達し、それによる熱の発生により水が蒸発してなくなると連鎖反応が停止する。このような周期的な原子核反応で駆動される間欠泉であった(Meshik et al 2004)。核分裂の連鎖反応の燃料となる235Uの半減期(7.1憶年)は238Uのそれ(45億年)よりも短いので、冥王代(40-46億年前)においては、235U/238U比は20%を超えていたはずである。その結果、それほど品の高くないウラン鉱床でも、水が十分に得られれば臨界に達する可能性がある(Kuroda1956)。冥王代にはこのような原子炉ガイサーが、大陸地殻表層にたくさんあったと考えられる。

原子炉から放射されるガンマ線(光子)、アルファ線(ヘリウム原子核)、ベータ線(電子)、中性子線などの電離放射線が水、二酸化炭素、メタンを解離・励起して多量の水和電子やラジカルと高反応性化合物を生産する。これによりHCNやHCHOがまず作られ、それが縮合して、グリセルアルデヒドやグリコルアルデヒドなどの重要な生化学中間体が、さらにプリンやピリミジンなどの核酸残基、リボースなどの糖、さらにアミノ酸や脂肪酸などが作られる(Ritson et al.2013など)。

原子炉ガイサーは、生命の化学進化に理想的な環境を以下のように提供する。
1)高密度の電離放射線が、反応性の高い化学物質やラジカルを作り出し、水や二酸化炭素分子から、生体構成分子への化学反応を駆動する。
2)物質とエネルギーの循環と周期的な変動(熱サイクル、乾湿サイクル)を駆動する。
3)温度が水の沸騰で決まる100℃を超えず、生体高分子が破壊されない。
4)原子炉壁を構成する橄欖石に富む岩石と水が反応する蛇紋岩化反応によって、H2とブルース石(Ma(OH)2)が形成されるので、局所的に還元的で強アルカリ(~pH11)環境をを提供するな環境を提供する。
5)HCNやフォルムアルデヒドのような揮発性の分子を地下の洞窟の天井などに閉じ込めることができる。

今のところ、生命の誕生場としては、干潟、深海底熱水孔、深宇宙、そして原子炉ガイサーの4つが考えられている(表)。上記の条件を満たすのは原子炉ガイサー以外にない。まず、干潟に関しては、潮汐による物質循環が存在し、温度が100℃以下であることはよいが、電離放射線として、太陽紫外線、雷、銀河宇宙線を使わざるを得ない。ところが、それぞれユリー・ミラーの実験に比べて前者で3桁、5桁、9桁以上小さいので、縮合反応を進めるためのHCNやHCHOの臨界密度に遠く及ばない。さらには、酸化的な地球大気に対して完全に開いた環境であり、局所的に還元的な環境を維持し、揮発性ガスを濃縮することも非常に難しい。

次に、深海熱水孔は、熱水による物質・エネルギー循環があり、温度も100℃以下で、蛇紋岩化反応によって局所的に還元的な環境を作りえる。しかし、電離放射線が全くなく、さらには完全に水につかっている状態で、ガスの濃縮は難しい。また、深海ではリン酸や窒素(アンモニア)の供給が絶対的に不足する。

深宇宙は、銀河宇宙線による電離放射線があり、0℃以下の温度で有機物が長期にわたって保存され、還元的な環境にある。しかし、物質・エネルギー循環は全くなく、ガスの濃縮は不可能である。その上、作った有機物を地球表面に破壊することなく運ぶことが困難である。例えば、100m以上の隕石が地球に衝突すると、一瞬にして蒸発し、隕石中の有機物は酸素と結合して二酸化炭素や水に変わってしまう。逆に、10m程度以下の隕石として地球に降下した場合でも、その表面は焼け焦げるので有機物は存在しえない。隕石の内部ではある程度残るかもしれないが、それを隕石中から取り出し、海中に放出する機構が存在しない。深宇宙で作った有機物を大量に地球に持ち込んで生命の材料に使うというアイデアは、多くの天文学者や生物学者の希望的夢想に反してほとんど不可能である。

科学哲学者カール・ポパーの反証可能性の理論によれば、生命の起源のような多くの物理・化学過程が関与する複雑な現象に対しては、作業仮説を立ててその反証を試み、棄却を重ねることで科学的理解を漸近的に深める必要がある。その意味では、生命誕生場としての干潟、深海熱水孔、深宇宙説はそれぞれ一つ以上の棄却要因(表の赤の部分)を抱えており、この時点で棄却するか、もしくは棄却要因を無効にする新しいモデルを構築するしかない事態にあると思われる。原子炉間欠泉については、今のところ致命的な棄却要因は見られないが、今後の新しい観測事実や理論に基づいて反証によるテストを繰り返すことが重要であることは言うまでもない。実際、東工大では原子炉ガイサーの示唆を受けてCo60ガンマ線照射施設を用いた化学進化実験が進行中である。核酸モノマーやアミノ酸を含む生体構成分子が効率よく生産される有望な結果を得ている。

1)Ebisuzaki, T. and Maruyama, S. 2016, Nuclear geyser model of the origin of life: Driving force to promote the synthesis of building blocks of life, Geoscience Frontiers, in press.
2)Ndongo, A., Guiraud, M., Vennin, E., Mbina, M., Buoncristiani, J.-F., Thomazo, C., Flotté, N., 2016. Control of fluid-pressure on early deformation structures in the Paleoproterozoic extensional Franceville Basin (SE Gabon). Precambrian Research 277, 1-25.
3)Ritson, D.J., Sutherland, J.D., 2013. Synthesis of Aldehydic Ribonucleotide and Amino Acid Precursors by Photoredox Chemistry. Angwandte Chemie-International Edition 52, 5845-5847.
4)Chyba, C., Sagan, C., 1992. Endogeneuous production, exogeneous delivery and impact-shock synthesis of organic molecules: an inventory for the origin of life. Nature 355, 125-132.
5)Meshik, A.P., Hohenberg, C.M., Pravdivsteva, Q.V., 2004. Record of Cycling Operation of the Natural Nuclear Reactor in the Oklo/Okelobondo Area in Gabon. Physical Review Letters 93, 182302-1-4.
6)Miller, S.L., Urey, H.C., 1959. Organic compound synthesis on the primitive Earth. Science 130, 245-251.
7)Kuroda, P.F., 1956, On the nuclear physical stability in the uranium minerals, The Journal of Chemical Physics, 25, 781-782.

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