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中原中也 大岡昇平著 

中原中也の評論である。二人は尊敬と反発をないまぜにしたような激しい親交を結んでいた。中原は天才であった。大岡は普通人であった。天才は普通人が見えないものを見、聞こえないものを聞くことができる。天才は、それができない普通人を、哀れみ、侮蔑し、揶揄さえもする。普通人は、それに傷つき、反発し、しかしその天才性に引き付けられてゆく。一方で、田舎者で無学である(大学に入れなかった)中原は、東京生まれの大学生の友人に憧れ、羨んだ。社会に受け入れられない自分に僻んだ。中原の交友関係は、有名な小林秀雄とのそれも含めて、並べてこのようだったらしい。

大岡は、中原の行状を淡々と記述してゆく。そこに言い知れぬ緊張感があった。所々に抑えきれぬ愛憎の断層が露出する。大岡は、中原の幼児性と自堕落さを侮蔑した。しかし、その中原の詩が悲惨な軍隊・抑留生活の支えであったことに、驚き、そして戸惑った。大岡は、この愛憎半ばする中原との関係を、死ぬまで清算できなかったようだ。それは、大岡が死ぬ8日前に語っといわれる「著者から読者へ」と題した後書きを読むとわかる。この文章は、次第に中原へのモノローグへと変貌してゆく。

本書は、高校からの友人である中原豊さん(中原中也記念館館長)の勧めで購入したものだ。我々は高校時代、青臭い文学論を語り合った中だった。その後、私は科学の道に進み、中原さんは近代文学研究の道を選ばれた。この本は、私を束の間、「在りし日」に戻してくれたように思う。旧友に感謝したい。

Now & Then, Carpenters

カーペンターズのあまりに有名なアルバムを購入して聞いた。中学に入学すると同時に英語の勉強に必要という名目で買ってもらったラジカセ。英語はそっちのけでラジオから流れてくるポップミュージックに夢中になってしまった。このアルバムの発表は1973年6月とあるから、私が15歳を迎える年の初夏ということになる。確かに、天気の良い初夏の日曜日にラジオからイエスタディ・ワンスモアが聞こえたときのことを鮮明に覚えている気がする。その後数カ月にわたって、このアルバムの曲がヒットチャートを席巻した。

このアルバムの真の特徴はB面にある。イエスタディ・ワンスモア(これだけオリジナル)から始まるオールディズのメドレーだった。「昔、大好きな曲を待ってラジオに聴き入っていた、、、という歌詞から始まり、スポーツカーの爆音に続いてビーチボーイズのファンファンファン、さらにラジオDJの紹介に続いて次の曲が、、、と進み、最後は、「When I was young I'd listen to the radio」のリフレインで眠り込むように終わるという徹底ぶりだった。メロディーラインを強調した垢ぬけたアレンジでオリジナルの泥臭さを払拭し、カレン・カーペンターズが深みと伸びがある美声で歌う趣向は素晴らしかった。これらの曲はカーペンターズ兄妹がティーンエイジャーの時にコピーして歌っていたものだとのこと。カーペンターズ家に呼ばれて一緒にラジオを聞いたり、楽器を演奏したり、歌ったりしているかのような楽しさがあった。カレンの歌唱力とともに、リチャードのアレンジャー、プロデューサーとしての才能が爆発したと評されていたと思う。全く同感だ。

40年がたち、今私はこのアルバムをオールディズとして聴いている。時を超えてリチャード・カーペンターズの魔術にはまってしまった。快い。When I was young I'd listen to the radio, waiting for my favorite songs, so fine, so fine,,ムニャムニャムニャ、、、。

五右衛門の足跡(ローレンツに触発されて)

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今から約35年前のこと、私は大阪大学理学部物理学科の2年生だった。当時私は、恐ろしく古くてぼろの一軒家に一人で下宿していた。ある夏の終わりの夜、下宿の前まで来るとピーピー泣いている子猫がいる。この子と共同生活をすることになってしまった。私の部屋は本やら、新聞紙やら服やらが散乱するとてもひどい状態だった。一度、空き巣に入られたが、まったく分からなかったほどだ。しかし、この子の忍び技はすばらしく、そんな中でもカサとも音を立てない。それに感動した私は、この猫を五右衛門と名付けた。

われわれの共同生活が「飼う」に当たっていたかどうかはわからない。とにかく朝はうるさく騒ぐので、なんか餌をやっていたと思う。しかし、その後は大学に出かけ、帰ってくるのは夜だ。その間、何をしていたのか、何を食っていたのか私は知らない。下宿は、土むき出しの駐車場の中にあり、目の前に川があった。川原に出ればバッタかカエルぐらいは捕まえられただろう。部屋ではゴキブリが大量発生していたが、その駆逐には役立ってくれていたようだ。

ある日、起きてみるとくしゃみがひどく、目脂で目が明かなくなった。風邪を引いたのだろう。そのまま死んでしまうと寝覚めも悪いので、獣医さんに連れて行った。獣医さんは注射を一本打ってくれ、「この子はメスだよ」といった。女の子ならば、もっとかわいい名前にしとけばよかったと後悔したが、五右衛子ではゴロが悪いので、そのまま五右衛門ということにした。

私の下宿は、隙間だらけ穴だらけだった。押入れの天井の穴から、天井裏を通して外へ出る抜け道があるらしく(実際、星が見えた)、彼女はこの抜け道を使って自由に出入りしていた。私が柔道の練習から帰ってくると、どこからともなく姿を現す。少しガソリン臭かったのは、車のエンジンの下で暖を取っていたからだろうか。

机に向かって勉強を始めると、彼女も膝の上に座って一緒に本を見ていた。ページの端や鉛筆を転がして遊んでいた。私は当時、ゾンマーフェルトを読んでいた。彼女があまりに熱心にゾンマーフェルトを見ているので、そのうち物理が分かるようになるかと思ったが、そういうことはなかった。

そのうち冬が来た。隙間風だらけで寒い寒い。暖防具は電気こたつしかなかった。確かに、こたつ代わりに猫を抱いて寝るのは具合がいい。こたつだと熱くなるが、猫は常に適温だ。ちょっと寒くなると脇の下、最も寒くなると股倉に丸まって寝る、自己中心な奴だった。

春になると、一緒に日向ぼっこをした。天気のいい日曜日、持っている下着を全部洗濯機にかけ、海パン一つで縁側に寝そべる。ちょっと肌寒いが、春先の強い日光が心地よい。その横で、同じ姿勢で彼女が寝そべる。何にもなかったが、半野生の猫と貧乏学生は幸せだった。

夏が来て、私は帰省することになった。置いてゆくと本当に野生化し、近所に迷惑をかけることになりそうなので、実家に連れてゆくことにした。激しく暴れたが、バスケットに押し込んで、一緒にフェリーに乗った。私は彼女を父に預け、その足で一人で九州旅行をした。私は一か月ぐらい実家にいて、また大学に戻った。半年ほどして、彼女がいなくなったと母親から聞いた。近くの交差点に、茶虎の猫の死体があったと風の噂に聞いた。

母親の話によると、五右衛門は父親の声に特に強く反応したらしい。父の声が、私のに大変良く似ていた(因果関係は逆だが)からだろう。また、夜8時ぐらいになると、人待ち顔で外を見ていたらしい。8時というのは柔道の練習が終わって、私が下宿に帰る時間だ。彼女は彼女で、私を恋しく思ってくれていたのかもしれない。彼女にきちんとお別れをしていなかったことに気付いた私は、ちょっと後悔した。

彼女と共同生活をしていたころ、私は、押し入れに4冊のランダムハウス英和辞典を積み上げていた。彼女は、これを天井に駆け上がるときの踏み台にしていた。この辞典はまだ理研の私の部屋にある。その箱には、猫の足跡が今も見える(写真)。今となってはこれだけが、私の最初のメスの友であった五右衛門の痕跡である。

人イヌにあう、コンラート・ローレンツ著 

イヌやネコを飼っている人は、ぜひ読むといい。彼らと仲良く共同生活するための知恵が随所にちりばめられている。特に、ローレンツの動物の表情の観察は鋭く、愛情にあふれ、洞察に富んでいる。読んでいたら、遠い昔、学生時代に共同生活していた猫のことを思い出した。そのうち書かせてもらおう。

自己組織化と進化の論理 スチュアート・カウフマン著

一世を風靡した(今もしている?)複雑系科学の第一人者による自己組織化の一般書である。彼らは、NKモデルと言われる数理モデルを使って、自己触媒化学反応ネットワークをモデル化した。それは、生命の起源、発生と細胞分化、カンブリア紀爆発進化、人間心理、社会・経済構造の発達と関係があるの主張がなされている。

生命の起源が、単なる一つの自己複製化学物質から始まるのではなくて、相互に触媒しあうたくさんの化学物質でできた自己触媒ネットワークにあるという主張は確かに卓見だと思う。N種類の分子が存在する反応系においては、その相互の重合・解離反応の数はNの自乗に比例して増加してゆく。したがって、個々の化学物質がある反応を触媒する確率が小さくても、Nが増加するにつれて、系内の物質の中で系内の反応を加速する触媒が見つかる確率は増加してゆく。そのような加速された反応の数が、化学物質の数に近づくと、臨界を超えて自己触媒ネットワークが姿を現す。これが、生命のもとだとカウフマンは言う。この臨界現象は、パーコレーション等でもなじみのものであり、それを生命の起源に適用した発想は素晴らしい。

カウフマンはこの理論を、人体などの細胞の分化の問題に適用する。人間の細胞の遺伝子数は約10万個(この本が書かれた当時の評価)ある。細胞は、その十万個のスイッチを持った遺伝子の相互調節ネットワークだと考える。このような系もカウフマンらのNKモデルで記述が可能である。そのような系はスイッチの数(遺伝子の数)の平方根ぐらいの数のアトラクターを持つことが予言される。一つ一つの細胞の状態は、アトラクターに近くづくとその周りにトラップされる。そのトラップされた状態こそが、細胞が分化した状態であり、幹細胞から特殊化した細胞への分化(発生過程)は、カオス状態からスタートして、それぞれのアトラクターにトラップされてゆく過程と理解できる。実際、人間の細胞は256種類あると言われており、10万の平方根=314と、よく一致している。ただし、ヒューマンゲノム計画が終わった今は、人間の遺伝子数は約2万個とされており、両者は少々解離している。この差はたぶん、細胞の中の遺伝子の相互調節ネットワークは、カウフマンのNKモデルより階層的で複雑だということを意味しているのだろう。一方で、4種類の遺伝子を同時に発現させると万能幹細胞になるという山中らの発見は、カウフマンらの描像とよく一致している。

心理や、経済、エコシステム、社会構造に関しては、この理論がどこまで有効かについては、議論はこれからだろう。確かに、これらの複雑なシステムの重要な性質をとらえていることも事実だ。ただし、これらが自己組織化で記述でき、時にカオスになることが分かっても、そこから引き出せるご利益は、割と多くないのだ。例えば、スティーブン・ピンカーに従って我々の脳が100個程度のモジュール(仏教でいう108つの煩悩に対応するもの?)でできた、相互調節ネットワークであると考える。カウフマンのNKモデルは、この系には100の平方根の10個ぐらいのアトラクターがあることを予言する。確かに人間の脳には、うれしい、悲しい、苦しい、さびしいなどの10個程度の心理状態があるような気がする。しかし、ある人が信頼できるかどうかについては、その人の個々のモジュールに蓄えられた経験とモジュールどうしの非線形な相互作用の詳細を知らなければならない。こういうことに関しては複雑系の理論は無力だ。とはいっても、なぜ脳は睡眠をとらないといけないのか、なぜ人が洗脳に弱いのかなどの理解に重要な指針を与えるかもしれない。

風立ちぬ」を観た。

堀越二郎の一連の戦闘機開発の物語、堀辰雄の同名小説、そしてトーマス・マンの「魔の山」の要素を3:3:1ぐらいの割合で混ぜて、宮崎監督の夢と想像力で固めてできた史上初(たぶん)の純文学アニメ作品である。

技術者・開発者として面白い挿話はいたるところにあった。サバの骨の形が美しいという二郎の感覚は正しい。流体の抵抗がすべてを決める水中にすむ魚の形と飛行機の揚力を生む翼断面の形が同じなのはたぶん理由がある。独自の工夫で無様なあひるの子を作った亀(二郎)の勇気が大事だ。その失敗の経験は次につながる。二郎は、飛行機製作についてのすべての最新知識を勉強して自分の中に統合したうえで、職工から設計者まですべての関係者を集めて夜中の勉強会を行い、知識と問題点を共有した。画期的なブレークスルーを生む正統的な方法だが、これがなかなかできない。このような開発の機微を、わかりやすい形で見せてくれたこの映画は素晴らしいと思う。

恋愛小説「風立ちぬ」の部分は当然たくさんある。病臥する菜穂子の横で持ち出しの計算を始める二郎。左手で布団の中の菜穂子の手をつなぐ。
菜穂子「仕事をしている二郎さんの顔を見ているのが好き」
二郎「片手で計算尺を扱うなら僕が世界一だ」
二郎「タバコ飲みたい。ちょっと手を離していい?」
菜穂子「だめ」
二郎「、、、」
というのはいいシーンだ(細かいところは違うかもしれない)。今度、女房相手に「風立ちぬゴッコ」してみようかな。私はタバコを吸わないが、、、。ビールに替えようか?計算尺もないな。タブレットの電卓で代用するか、、、。うーん、ちょっと雰囲気ないなあ。

魔の山の要素も所々にある。高原のホテルで親しくなるドイツ人の名は、カストロプさんだった。これは魔の山の主人公の名前である。魔の山は第一次世界大戦勃発直後の1914年にカストロプがサナトリウムから出所するところで終わるらしいから、1930年代に中年のドイツ人として彼が日本に滞在しているという設定は成立しなくはなさそうだ。また、ベランダで毛布にくるまる結核療法のシーンは、魔の山からとったものだと思う(私は前半分しか読んでいないが)。

この映画で純文学に対する興味が高まるだろう。私も、堀辰雄の小説の方を予習してしまった。純文学は深く内省を迫る。時にはいいことだ。そっちの感想文はまた別途書きたい。

本作品は、大正末期から昭和初期の風景と庶民の生活が、克明に、そしてこの上もなく美しく描かれていた。素晴らしかった。

私の自由研究

私は山口県下関市彦島に住んでいた。本州の西端、九州に向かって突き出した岬の先端にある島である。彦島は造船で栄えた町だった。しかし、もう当時は韓国との厳しい競争に晒されて、構造不況に島全体があえいでいた。そのためか、島にはたくさんの空き地があった。どこも草が伸び放題。盛大に葉っぱを伸ばしたカヤの大株があちこちに見られた。私の家はそんな原っぱの中にあった。

私は、カヤの葉の中心を走る白い葉脈に赤い斑点が点々とついている場合があることに気がついた。この斑点の原因は何か?それをつきとめることを研究テーマにした。

私はまず、観察することからはじめた。比較的古い大きな葉に斑点がついていることが多い。また、株と株で調べると数にかなりばらつきがある。私は自転車で少し遠くまで行ってみた。彦島にはたくさんの小山があり、小さな町がそれで隔てられている。それらを結ぶ峠の切通しには、猛烈な風が吹く。そんな場所にあるカヤを調べてみた。ここでは、赤い斑点が少ないその代わり、カヤの葉が風で折れたり、周りの葉とこすれ合って傷ついている。折れたり、傷ついた場所は赤く変色していた。

これらの観察をもとに私は、「カヤの葉は物理的に傷つくと、そこが赤くなる」という仮説を立てた。生物の大本先生に相談したら、植物の場合、傷つくとその防御反応としてアルカロイド色素が沈着することは良くあることだという話をしてくれた。アルカロイド色素は紅葉の原因となる色素だから、赤く変色することは不思議ではないという。この仮説は、正しそうだとの感触を得た。

私の興味は、「カヤの葉の中心の白い葉脈という特殊な場所に特有の傷をつけたのは誰か?」という疑問に移った。昆虫少年だった私は、虫が犯人ではないかと推測した。そこで、捕虫網を取り出して、カヤの株の中を数回凪いで見た。するとその中に、数種類の昆虫がつかまった。家に持って帰って、昆虫図鑑で調べてみるとウンカの仲間の昆虫がその中にいた。図鑑で確認したところツマグロヨコバイ(以下ツマグロとする)らしい。ツマグロはイネ科の植物の葉に張りついて、草液を吸って暮す昆虫であると図鑑に書いてあった。カヤもイネ科だ。こいつらはカヤの草液を吸って生きているのだろう。確かに腹側には、針状の口があった。昆虫採集で捕虫網を振り回していると、蝶なんかと一緒に捕虫網に入ってくるおなじみの昆虫だった。

私は、この昆虫がその針状の口を葉脈につきたてて、草液を吸ったときにできた機械的な傷が赤い斑点の原因ではないかと考えた。そこで、一連の実験をした。まず、母親の針箱からマチ針を数本失敬し、カヤの葉の葉脈に突き刺した。その後、外部からの刺激がない様に、透明のセロテープで封をした。傷つけた場所がわからなくなることを防止する意味もあった。また、傷をつけないでテープだけを巻いたものも比較のために用意した。セロテープの影響が心配だったからである。その他、針で突き刺した後、黒いビニールテープで巻いたものも作った。日光の影響があるかもしれないと考えたからである(紅葉と近い現象なら日光も関係する可能性がある)。1ヶ月ほど経った後、調べてみると、針でつけたの傷の周りが見事に赤くなっていた。傷をつけないでセロテープだけ張った場所にはなんの変かも見られない。黒ビニールテープでも傷の周りが着色していた。日光は着色には関係なさそうだ。

また、ツマグロを5匹ぐらい集めて、カヤの葉の周りに縛り付けたビニール袋の中に閉じ込めた。これを1ヶ月後に調べてみるた。ツマグロを閉じ込めたビニール袋の部分の葉では、赤い斑点の数が異状に多いことを見出した。かわいそうなツマグロたちはまだそのビニールの中で生きていた。一方、ツマグロを入れないビニール袋の中は綺麗なままだった。

以上の実験から私は、以下のように結論した。カヤの葉の中心の葉脈の上に見られる赤い斑点は、ツマグロが草液を吸うために針状の口を突き刺してできた傷が原因である。このような傷の周りにアルカロイドが沈着して赤く着色することは、植物においては良く見られる現象であると、生物の大本先生が教えてくれたことは先にも述べた。

この結果をまとめて、読売新聞が主宰する高校生の科学研究コンテストに応募した。指導してくれた大本先生が熱心に進めてくれたからである。内心、かなりいいところまで行くはずだと思っていた。高校生の研究では、生物の生態・分布調査見をたくさんの仲間でやり、まとめたものが多い。それはそれで立派である。しかし、科学において大事なのは、(1)問題発見、(2)観察による仮説立案、(3)実験による仮説の検証、のサイクルを実行することである。生物の生態調査なんかでは、高々観察による問題点把握ぐらいでとどまる。残りは、今後の課題であるとか言ってごまかす場合が多い。一方でこの研究は、この一つの科学のサイクルを完全に閉じさせているのが私の自慢だった。

私の研究は、残念ながら山口県大会で高校最優秀賞にとどまり、他の研究が全国大会の上位を占めた。案の定、全国大会の上位は、「xxx地方の環境調査」とか「xxx鳥の分布」とかいうようなタイプの研究が占めていた。また、かなり指導者の先生の手が入っていたように思う。私は少しがっかりした。審査員たちは本当の科学というものを分かっていない。一方で、私は、自分の科学者としての才能に自信をもった。何万人という高校生の中で、ここまできれいな科学研究をしていた人間は恐らく私だけなのだ。何とかして科学者になれば、絶対それで飯を食っていける。では、どうやって科学者になるか。それが問題だった。父が勤める造船所では激しいリストラの嵐がやってこようとしていた。病気を患っていた父は、この嵐をまともにうけて心までも蝕まれかけていた。

本当の科学が分かる科学者がいる大学に進学しなければならない。奨学金を得なければならぬ。それまであんまり熱心でなかった受験勉強に、必死で取り組むようになったのはこのころだった。八幡製鉄の高炉が上げる煤煙が、のしかかるように私を見ていた。

後日談1:
私は、その後阪大理学部物理学科に進学し、今も理研で科学者をやっています。大本先生は、私が物理学科に進むということを聞いたときに少しだけ残念そうな顔をしました。私は、生物学は各論に終始しており、まだ私の才能が生かせる状況にないと判断していたように思います。この研究は、私の科学者としての最初の仕事だと思っています。植物の機械刺激に対する防御反応は、農学においては、現在の最先端テーマである事を理研で知りました。ゲノムの解読が進み、生物学が私が絡める状況になってきたと思っています。できれば、この高校時代の研究の続きをして今度は研究誌に投稿してみたいと考えています。いつのことになるかわかりませんが、、、。

後日談2:
先日、久しぶりに母校に行ってみると、私のこの時の全国大会のトロフィーがまだ職員室に飾ってあるのを知りました。どうも、全国大会ではベスト5には入らなかったものの、ベスト10以内の評価だったようでした。見る人は見ていてくれたということでしょう。なにせ、高校生がほとんど一人でまとめたもの。突っ込みどころは満載だったことを考えると、正当な評価だったかもしれません。大本先生は、私の自主性を尊重してあまり手を入れられませんでした。感謝しています。

H君とK君

H君とK君は、私の中学3年のころの友達である。彼らと深く交わるようになったきっかけは井上靖の小説「夏草冬濤」であったと思う。その後半に主人公とその友達が、文芸(哲学だったかな)同好会を作り、学校の各クラスを回って、演説し会員の勧誘をするエピソードがあった。当時それがNHKのドラマになって放映された。放映の次の日H君とK君が二人して私のところのやってきて、「あれがとてもよかった。ぜひ自分たちも同じようなことをしてみたい。ついては一緒にやらないか?」と私を誘ったのである。600人もいた同級生からなぜ私が選ばれたかわからない。これまでの言動から、こういうことをやるなら戎崎という判断があったのだろう。私は一も二もなく賛成し、3人である朝クラス周りをやらかした。

さっそく、担任と生徒指導の先生から呼び出しがかかり、普通の生徒を惑わすようなことをやめろとか、受験があるんだからよけいなことをするなとか、K君とはつるむなとかさんざんお説教をくらった。K君は在日朝鮮人であり、学校は、彼を不良とみていたらしい。彼は学校の成績こそあまりよくなかったが、頭がよく、議論では手ごわいファイターだった。正直言って、当時はまだ朝鮮人に対する差別が根強くあったと思う。その中で、彼は朝鮮人としての誇りを持ち、出自を隠さず生きることにしたと言っていた。私はその勇気を尊敬した。また、差別がある社会で誇りを持って生きてゆくには、資格が重要だ、弁護士になると彼は言っていた。

先生から禁止されたクラス周りはやめたが、私たち三人は放課後ごとに集まっていろんな議論をした。先生のお説教は誰も気にしなかった。先生たちも、表立った行動をとらない限り黙認することにしたんだろう。もっとも、他の生徒のもっとひどい不良行為への対応で、先生たちは忙しかったに違いない。

H君は創価学会のメンバーで、池田大作氏に心酔していた。彼の本を貸してくれて私に意見を求めたりもした。すでに科学者になる志を立てていた私は、そこに書かれていたことには満足できなかった。その中には、彼の思想と現代科学の関係について議論していた部分があったが、彼の思想はなんら現代科学に資するものでなく、むしろそれと彼の思想の関係を述べることにより、彼の思想の権威づけに使っているだけだと見た。H君は激しく抵抗した。私も自説を曲げなかった。激しかったが、楽しい議論だった。池田大作の本を参考書に、仏教経典の解釈とか、唯物論の批判と唯識論とかについて議論を重ねたような気がする。さらに議論は、原子力の是非や戦争、朝鮮との関係に及んでいた。それはとても未熟なものだったが、私たちは真剣だった。生半可な議論では、他の二人に馬鹿にされるだけだったから。

中学3年の春から夏は、よく三人で過ごしていたと思う。8月のある日に3人で海水浴に行った(きっと、井上靖の小説の真似だ)。その日は台風が接近中で海水浴場はひどいうねりが出ていたが、海に入るのが怖いとは二人に言えなかった。こわごわ海に入ったが波が高くてとても泳げず、浮輪代わりのタイヤチューブにしがみついているだけに終わった。見てみると他の二人もそうだった。よく無事だったものだ。よい子は真似をしないように。

この親密な関係も中学卒業とともに終わる。K君は朝鮮関係の高校に入学したと思う。卒業後会っていない。志通りに弁護士になっているだろうか?何になったにせよ、面白い人生を送っているに違いない。H君は、私とともに下関西高に進学した。彼は野球部、私は柔道部に入部して忙しくなったためか、議論しなくなった。議論の季節は終わり、実践の時が来たのを知っていたのかもしれない。H君はその後、創価大学に入学し、さらに池田大作の右腕になったと聞く。最近は、創価学会から離れてしまったとも聞いた。今は、どうしているだろうか?私は、大阪大学理学部に進学し、本格的に科学者への道を進むことになった。
15歳の夏、約40年前の懐かしい思い出である。

金・銀・銅の日本史 村上隆著

金・銀・銅は贅沢な装飾品として、通貨として歴史を動かす「富」そのものだった。日本はかつて豊かな産出量を誇り採鉱、精製錬、金属加工技術は驚くべき高みに達していた。そこにはハイテク日本のルーツである、工人の創意工夫が少なくとも1500年の歴史を持つものであることが、埋葬・副葬品、芸術作品や飛鳥池遺跡、石見銀山などの産業遺跡調査の結果から浮かび上がる。

韓国併合への道(完全版) 呉善花著

韓国の李朝末期から、日本による韓国併合とその統治、そして戦後の韓国における反日政策について淡々と描かれている。李朝末期、西欧による植民地化が迫る中、韓国では貴族階級である両班たちは民衆の困窮を顧みず、派閥の闘争に明け暮れて国政改革が進まない。宗主国である清国の軍隊は、民衆・市民を略奪して憚らない。日本の支援を当てにした金玉均のクーデターは失敗し、韓国内からの改革の可能性はなくなった。親日勢力が後退するなか、親露派のクーデターが起き、国王がロシア公館に居住するなど、李氏朝鮮はロシアの保護国になり下がって低迷が続く。一方で、日清・日露戦争を勝ち抜いた日本が1910年に韓国を併合してしまう。

日本による統治は、「日本本土と等しい社会基盤を取りそろえた国に作って永久編入しようとする野心的な支配計画」にのっとったものだったという。近代的な土地・財産制度を確立し、土地の調査により所有者をはっきりさせた。北部には大規模な工業地帯が築かれ、南部では開墾、干拓、灌漑事業が急速に進んだ。鉄道、道路の敷設、港湾施設の整備、電信・電話などの通信施設の敷設が行われた。1920年までに植林された苗木は10億本におよび、米の生産高は併合時の2倍を超える2200万石に達した。朝鮮半島の人口も1310万人から、2500万人に増えている。学校数は併合時には4年制の普通学校100校しかなかったものが、1944年には国民学校(6年制)が5960校に増え、識字率も10%だったものが22%まで増えている。これらの努力は、近代国家としての韓国の基礎となるのもので、現在の大韓民国に生かされていると思う。

他民族による植民地支配が、綺麗事で済むはずがなく、日本の韓国併合は、現在の民族自主独立の原則と価値観に照らして、当時の西欧諸国によるアジア・アフリカの植民地支配とともに厳しく糾弾されなければならない。一方で、日本の朝鮮半島の植民地統治が、当時の西欧の植民地当時に比べ、少なくとも過酷ではなかったことは明らかだと思う。搾取の対象というよりも第二の北海道:フロンティアとしての投資と開拓の対象と認識していたと考えられる。韓国の歴史家は、日本帝国主義を批判すると同時に、日本の代わりにロシアの植民地になっていたらどうだったかを、また、金玉均のクーデターが成功していたらどうなったかをまじめに検討してもらいたいと思う。

私の母からは、「韓国は禿山ばかりで、山に木がなかった。川は濁っていた。日本に帰ってきて緑の山と、青い川を見ていいところだと思った。」と聞いていた。たぶん、山の木は燃料として薪に使われて禿山ができ、土砂崩れが頻発して川が濁ってしまっていたのだと思う。今回、母を連れて韓国を旅行したが、韓国の山は見事に緑の木に覆われていた。川は青かった。その点で韓国が戦前とずいぶん違うことは母も確認した。戦前の日本人の植林で一定の成果を得、それを引き継いだ韓国人たちが育てて今に至ったものだと思う。山の森林こそ、文明の基礎である。韓国における森林の回復に日本人の貢献があったとするならば、楽しいことだ。

日本の首相はなぜ靖国神社に参拝しないといけないか?

今年もまた夏を迎えて、首相の靖国神社参拝が国際的な話題になりそうだ。私は研究者で定常的に外国人と議論している。その中で閣僚の靖国神社参拝が外国人にまったく誤解されている可能性を感じたので、警鐘を鳴らしたい。

普通、神社に参拝すことを辞書に従ってworshipと訳する。これが誤解のもとだと思う。戦前の軍国主義者、戦争責任者たちも祭られている神社に手を合わせる行為は、彼らを崇拝し同様の行為を取ろうとする意志の表れと外国人には理解される。しかし、そうでは全くないと私は思う。むしろ、明治以降の戦争に関係した行為で異常な死を迎えた人々(戦争責任者として米軍に処刑された戦犯も含む)を悼み、その魂を慰めることにあると思う。この行為は、外国人、特にキリスト教圏の人には理解が困難なので、丁寧に説明する必要がある。

日本人は古代から異常な死に方をした人は、現世に恨みを残している考え、死後に異常な力を持ち、祟るとされてきた。天災や流行病、飢饉、戦争などは彼らの祟りのせいだとされ、それを防ぐために神社が作られた。つまり、これらは異常な死に方をした死者の魂を慰め、出てきて暴れないようにする容器である。年に一度のお祭は、彼らの魂が神輿にいれて持ち出され、激しく荒ぶって、そのエネルギーを解放するためのしかけである。

もし、A級戦犯たちが今の日本に祟るとするならば、それは日本における軍国主義の復活であろうと私は思う。「それはいやだ、そうならないようにしたい。どうか、ここにこのまま静かに眠っていてくれ」という願いこそ、政治家をして靖国神社に向かわせ、手を合わせさせる理由だと私は思うし、それを支持する(海外の批判をむきになって否定したくなる)日本人の心だと私は思う。これは「まつりごと」を生業とする政治家のとくに政権を担当している首相の大事な仕事の一つと、日本人は無意識に感じているのでないだろうか?

まだまだ、論理に穴がありそうだが、海外からの批判にただ感情的に反発するだけでなく、このような日本人の精神世界と心の働きを諄々と説明する努力が必要と思う。生半可の説明では、戦争責任を免れるための言い逃れと解釈されよう。日本人は、第二次世界大戦前のような列強(ヨーロッパ諸国、米国、日本)によるアジア・アフリカ諸国の植民地支配には、断固反対する立場をとることも明確にしなければならないと思う。

皆さんのご意見を賜りたい。

野火 大岡正平著

これは、学生時代から読まねばならないと思っていた本の一つだった。テーマの重さから、読む気力が湧かず、今日まで延ばし延ばしにしていた。中原中也を読んだ勢いで、読んでみた。

主人公の田村はフィリピンに派兵された。そして、愚劣な作戦の失敗で敗北しつつあり、全体として強盗集団に成り下がった日本陸軍の中にいた。無理な行軍で肺病が進んで喀血し、食糧略奪行に耐えない彼は、本隊を追い出されたが、食糧を持たない患者を病院は受け入れない。行く場所のない彼は、同様の境遇の見捨てられた日本兵の集団に入る。病院は米軍の砲撃を受けて破壊され、主人公はフィリピン山中を彷徨する。その間に、日本軍は米軍の砲撃で壊滅し、日本兵は野盗集団となって、個別に現地民から食糧を略奪しはじめる。主人公は、住民の反撃にあって死んだ日本兵の死体の群れを発見したり、その村に戻ってきた現地民の女に遭遇して、射殺してしまったりする。

さらに主人公の彷徨は続く。日本兵たちは、餓鬼の集団となり、飢餓や病気や銃撃で死んでゆく。あまりの飢えに主人公には周りの死体が食糧に見えてくる。実際、臀部が切り取られた死体を見かけるようになる。遂に死にかけたときに再会した昔の仲間二人は、死にかけた同朋を殺してその肉を食って生き延びていた。銃で狩ったという「猿の肉」を食べて回復した田村は、次第にその事実を理解する。狩るための銃弾が尽きたとき、自殺用の手榴弾をめぐって争いが起きる。生き残った田村は、その後の記憶がない。「仲間」の肉を食ったかどうかも定かではない。いくつかの幸運が重なって、米軍に救助されて九死に一生を得たようだ。

主人公の「地獄めぐり」は、人間は本質的に野蛮な猿であり、ちょっとした食糧不足で、簡単に強盗、野盗、殺人者、共食いとあらゆる悪徳を噴出させる存在に変わることを見せつける。「地獄めぐり」の果てに、最後に主人公が感じたのは、神の救いであったという。あまりに悲惨な体験をしてしまったものにこそ、神は姿を現すのかもしれない。

人間は食べ続けなければならない。1週間も食糧を与えなければ、人間は礼節を忘れ、餓鬼となってあらゆる悪徳を表す。食糧こそ大事である。私たちは幸いにして少なくとも飢えることはなかった。その意味では、大変幸せな人生を送ってきた。次の50年が同様である保証はまったくない。世界の人口は、恐るべき勢いで増えている。今のところ、流行病、飢餓と戦争などの不幸な事象以外で、人口増加が止まった例がない。われわれは英知を示さなければならない。また、来るべき食糧不足の時代に備えなければならない。

聖徳太子3 梅原猛著

著者は、聖徳太子が煬帝を深く尊敬していたに違いないという。実際、聖徳太子が派遣した遣隋使は「海西の菩薩天子」と煬帝のことを表現している。仏教を厚く信仰し、仏教による文明国家の建設を目標とする聖徳太子としては最大の尊敬を表現したものに違いない。しかし、「日出でる処の天子、書を日沈む処の天子に送る、恙なきや」とした日本の国書は、わがままな煬帝の怒りを買い、彼は「失礼だ。二度と見せるな」と言ったという。聖徳太子の煬帝に対する尊敬は、片思いに終わったようだ。それでも、隋は日本に対し裴世清を使者として送る。これは日本の対中国史上前代未聞のことである。高句麗や百済の僧を政治顧問においた聖徳太子は、東アジアの政治情勢を読み切って、敢えて失礼なラブコールを隋に送ったのであろう。見事な判断と決断力である。さて、一方の隋はどう反応したか。

遣隋使の派遣の直前(西暦607年)に、隋は琉球に朱寛という将軍を派遣し島人一人を連れ帰らせている。さらには、次の年に再び琉球を慰撫せしめるために派遣された朱寛は、琉球国王の抵抗にあい、それが果たせなかったが、「布の甲」を持ち帰った。この年に来た日本の使者(たぶん遣隋使の小野妹子)にこれを見せたところ、「夷邪久(屋久島か)の国人の用いるもの」と言ったという。さらに、隋は陳陵と鎮周に一万を超える兵を預けて琉球を侵略し、国王を殺して万を超える民衆を虜にして連れ帰った。おりしも、608年から609年にかけて、日本は隋の使者裴世清を迎えていた。飴と鞭。聖徳太子の純粋でプラトニックな(たぶんに意識的だが、半分本気の)ラブコールに対し、煬帝は見事なパワーポリテックスで切り返したことになる。一流の舞を見るような見事な外交戦といえる。

さて、ここで聖徳太子が、日本にとって非常に大事な外交ポイントを中国から上げたことは注目に値する。日本の国王が中国に対等な形で国書を送り、当時の中国皇帝がそれを正式に受け、さらに返答の使者まで送り出している事実である。さらに、その事実が中国の正式の史書である隋書にも記載されている。中国の周辺諸外国との交わりは、常に周辺国からの朝貢の形をとり、「中国皇帝はすべての土地を治める権利を持っているが、かの地は中国から遠すぎるので、とりあえず代わって治めることを命じる」という形を例外なくとっていた。周辺諸国の国王は、これを国内の統治の権威づけに使った。魏に使いを送って金印を授かった卑弥呼もその典型である。これは、現代の中華人民共和国が、その周辺国がどこも中国の一部と今言い張る根拠になっている。日本については、明らかな例外がここにある。

以後、日本は中国を手本とした律令国家の建設に邁進し、仏教を中心とした大陸文明を熱心に輸入した。聖徳太子のこの見事な外交戦は、その端緒を開く大変重要な出来事だった。

一方、中国においては、隋が滅亡し、代わって唐が起った。その唐が隋の煬帝に諱した煬とは、「内を好みて礼を遠ざける」「礼を去りて衆を遠ざける」「天に逆らって民を虐げる」た皇帝につけられる名前だそうである。現代中国の政治指導者たちの言動が、次世代のそれから「煬」と諱されるような事態が起こらないことを、中国と東アジア諸国の人民のために祈りたい。

聖徳太子2 梅原猛著

西暦590年、約400年ぶりに中国を統一した隋から、高句麗を詰問して恐喝・恫喝する国書が送られる。隋による侵略が必至とみた高句麗王は、背後の新羅を牽制するために日本に接近する。日本は、これを機会に当時最新流行の宗教・知識体系である仏教の導入を計る。高句麗および百済の援助で日本で法興寺が建設が始まる(推古元年、西暦593年)。この年の夏、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)が皇太子となり、さらに摂政となって日本の政治を総攬されるようになる。彼の家庭教師は、高句麗および百済から派遣された僧侶、慧慈と慧聡だった。聖徳太子は、慧慈から仏教を、慧聡から儒教などを学ばれたという。

仏教と一緒に、それを支える技術、医術、農業技術、金属冶金技術、建築技術、土木技術などの実用技術とその技術者も、日本に来たに違いない。仏教導入は、今でいえば「科学技術立国」という言葉に似た響きを持っていただろう。僧侶たちは、今でいえば科学者の面も持っていたはずだ。仏教も科学もインターナショナルなものであるが、それゆえに国の利害がぶつかり合う国際関係において、重要な役割を果たすこともあるという例でもあろうか。

聖徳太子は、10年の準備の後、西暦603年に小墾田宮に遷都されて、本格的に自分の政治を始められた。同年、官位十二階を制定され、さらに翌年十七条憲法制定された。これらは、仏教、儒教、法家思想その他を十二分に消化された上で、独自の思想体系に再構築されたものだった。「和をもって貴しとする」官僚国家、日本の誕生であった。

聖徳太子1 梅原猛著

聖徳太子が活躍した六、七世紀の東アジアは風雲急を告げていた。著者曰く「数世紀ぶりに、中国において、南北を統一した巨大な隋帝国が出現して、隣国は、この隋帝国の侵略に戦々恐々としていたところであり、朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅が鼎立し、互いに軍事および外交において、しのぎを削っているという状況にあった。変動の時代を迎えて、東アジア世界は、大いなる緊張につつまれていた。」また曰く「太子は、ただ日本の仏教の問題のみでなく、日本の政治や外交についても、実に重要な問題を投げかけてた。そして、そのような問題は、今の日本の問題でもある。」

今、統一中国が再び超大国として東アジアに覇を唱えようとしているように見える。歴史は繰り返すかのように見えるが、まったく同じとは限らない。我々は歴史から学ぶことができる。中国は隋帝国の顰に倣ってはならないし、日本は任那失陥や白村江の敗戦の顰に倣ってはならない。未来を選択するのは、我々である。

聖徳太子を、東アジアの政治・軍事・文化状況から初めて議論した本書は、現代日本人にとって必読の書かもしれない。

秘境西域八年の潜航上中下 西川一三著

昭和18年日中戦争時に、工作員として厳重な鎖国政策を取るチベットにラマ僧侶として潜入。あらゆる困難を超えて目的のラサへの潜入に成功する。日本敗戦のうわさを聞き、確認のために、ヒマラヤを超えインドへ。日本敗戦を確認の後、志してラマ教の修行とチベット語の勉強のために、ラサのレボン寺に入門し厳しい修行の日々を送る。その後、中国西康省探検の後、再びインドへ。今度はラマ僧として仏陀の旧跡を辿る巡礼の旅を続ける。この巡礼の旅は、玄奘の「大唐西域記」をなぞる様相を呈する。各地の風土特に、ラマ僧と人々の暮らしの記録は詳細である。その文明批評は一読の価値がある。チベット政府の問題点への指摘は鋭い。西川氏の旅行の直後、チベットは中国に併呑され、チベット主権者であったダライラマは、インドに亡命して現在に至っている。

歴史序説第4巻 イブン・ハルドゥーン著

この巻は学問論、教育論。
まずは、占星術と錬金術の無用性と有害性が述べられる。例えば、占星術については、「このようにして占星術の無価値なことはイスラーム法から見ても明らかであり、その結果の薄弱さは理性の点から見ても明らかである。その上占星術は人間の文明に害を及ぼす。それは、たまたま占星術による判断が説明できないようなあり方で真実となる場合、一般の人々の信仰を傷つける。無知な人々はそれを真に受け、そうではないのに、他の星占いの判断もすべて真実に違いないと想像する。その結果、無知な輩は創造者たる神以外のものに物事を結びつけるようになる。「さらに占星術は、危機の兆候がある王朝に現れるであろうという期待をしばしば起こさせる。これは王朝の敵対者を攻撃や反乱へとかき立てる。我々はこの種のことを数多く目撃した。」という次第。秘法に頼るより、神に与えられた自分の理性と能力を信じろという教えであろう。

さらには、学術書が多いことが学術を害するという。いわく「例えば、言葉遣いを変えたり、内容の配置を変えたりするごまかしを行って、ある先人の著作をあたかも自分の著作であるかのようにすることである。あるいは、当面の学問にとっての本質的な部分を取り除くとか、不必要なことを記述するとか、正しい著述を間違ったものに置き換えるとか、何にも役に立たない事柄を記述するとか言ったことがあげられる。これらはすべて無知で恥知らずといえる。」

どっかで聞きかじったことを適当に寄せ集めた本の類(が氾濫する世の中に住む我々には耳の痛い言葉だ。

馬と進化、G.G.シンプソン著/長谷川善和/原田俊治訳

原著は1951年出版。前半は、家畜馬の詳細な記述。当時の人、特にアメリカ人は馬が本当に好きだったとわかる。後半は馬は進化についての記述。馬は進化の道筋が北米中南部の化石から詳細に解明され、ダーウィンのいう漸進的な進化の典型とされている。草食が可能な草原性の種の誕生が彼らの飛躍をもたらした。気候変動による森林/草原の膨張/収縮が大きな役割を果たしたに違いない。それはアマゾンの鳥の分布にも色濃く表れている。

歴史序説、イブン・ハルドゥーン著、第二巻

王朝と文明の発達と衰退には一定の法則がある。600年の時を超えて現在の政治状況にも適用できそうな強靭な歴史学、政治論である。明晰で実証主義的な論理構築。チムールを魅了し、歴史西洋歴史学の起点とされた理由もよくわかる。むしろ、その後の歴史学は、ここから一歩も進んでいないのかも知れない。