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聖徳太子2 梅原猛著

西暦590年、約400年ぶりに中国を統一した隋から、高句麗を詰問して恐喝・恫喝する国書が送られる。隋による侵略が必至とみた高句麗王は、背後の新羅を牽制するために日本に接近する。日本は、これを機会に当時最新流行の宗教・知識体系である仏教の導入を計る。高句麗および百済の援助で日本で法興寺が建設が始まる(推古元年、西暦593年)。この年の夏、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)が皇太子となり、さらに摂政となって日本の政治を総攬されるようになる。彼の家庭教師は、高句麗および百済から派遣された僧侶、慧慈と慧聡だった。聖徳太子は、慧慈から仏教を、慧聡から儒教などを学ばれたという。

仏教と一緒に、それを支える技術、医術、農業技術、金属冶金技術、建築技術、土木技術などの実用技術とその技術者も、日本に来たに違いない。仏教導入は、今でいえば「科学技術立国」という言葉に似た響きを持っていただろう。僧侶たちは、今でいえば科学者の面も持っていたはずだ。仏教も科学もインターナショナルなものであるが、それゆえに国の利害がぶつかり合う国際関係において、重要な役割を果たすこともあるという例でもあろうか。

聖徳太子は、10年の準備の後、西暦603年に小墾田宮に遷都されて、本格的に自分の政治を始められた。同年、官位十二階を制定され、さらに翌年十七条憲法制定された。これらは、仏教、儒教、法家思想その他を十二分に消化された上で、独自の思想体系に再構築されたものだった。「和をもって貴しとする」官僚国家、日本の誕生であった。