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私の自由研究

私は山口県下関市彦島に住んでいた。本州の西端、九州に向かって突き出した岬の先端にある島である。彦島は造船で栄えた町だった。しかし、もう当時は韓国との厳しい競争に晒されて、構造不況に島全体があえいでいた。そのためか、島にはたくさんの空き地があった。どこも草が伸び放題。盛大に葉っぱを伸ばしたカヤの大株があちこちに見られた。私の家はそんな原っぱの中にあった。

私は、カヤの葉の中心を走る白い葉脈に赤い斑点が点々とついている場合があることに気がついた。この斑点の原因は何か?それをつきとめることを研究テーマにした。

私はまず、観察することからはじめた。比較的古い大きな葉に斑点がついていることが多い。また、株と株で調べると数にかなりばらつきがある。私は自転車で少し遠くまで行ってみた。彦島にはたくさんの小山があり、小さな町がそれで隔てられている。それらを結ぶ峠の切通しには、猛烈な風が吹く。そんな場所にあるカヤを調べてみた。ここでは、赤い斑点が少ないその代わり、カヤの葉が風で折れたり、周りの葉とこすれ合って傷ついている。折れたり、傷ついた場所は赤く変色していた。

これらの観察をもとに私は、「カヤの葉は物理的に傷つくと、そこが赤くなる」という仮説を立てた。生物の大本先生に相談したら、植物の場合、傷つくとその防御反応としてアルカロイド色素が沈着することは良くあることだという話をしてくれた。アルカロイド色素は紅葉の原因となる色素だから、赤く変色することは不思議ではないという。この仮説は、正しそうだとの感触を得た。

私の興味は、「カヤの葉の中心の白い葉脈という特殊な場所に特有の傷をつけたのは誰か?」という疑問に移った。昆虫少年だった私は、虫が犯人ではないかと推測した。そこで、捕虫網を取り出して、カヤの株の中を数回凪いで見た。するとその中に、数種類の昆虫がつかまった。家に持って帰って、昆虫図鑑で調べてみるとウンカの仲間の昆虫がその中にいた。図鑑で確認したところツマグロヨコバイ(以下ツマグロとする)らしい。ツマグロはイネ科の植物の葉に張りついて、草液を吸って暮す昆虫であると図鑑に書いてあった。カヤもイネ科だ。こいつらはカヤの草液を吸って生きているのだろう。確かに腹側には、針状の口があった。昆虫採集で捕虫網を振り回していると、蝶なんかと一緒に捕虫網に入ってくるおなじみの昆虫だった。

私は、この昆虫がその針状の口を葉脈につきたてて、草液を吸ったときにできた機械的な傷が赤い斑点の原因ではないかと考えた。そこで、一連の実験をした。まず、母親の針箱からマチ針を数本失敬し、カヤの葉の葉脈に突き刺した。その後、外部からの刺激がない様に、透明のセロテープで封をした。傷つけた場所がわからなくなることを防止する意味もあった。また、傷をつけないでテープだけを巻いたものも比較のために用意した。セロテープの影響が心配だったからである。その他、針で突き刺した後、黒いビニールテープで巻いたものも作った。日光の影響があるかもしれないと考えたからである(紅葉と近い現象なら日光も関係する可能性がある)。1ヶ月ほど経った後、調べてみると、針でつけたの傷の周りが見事に赤くなっていた。傷をつけないでセロテープだけ張った場所にはなんの変かも見られない。黒ビニールテープでも傷の周りが着色していた。日光は着色には関係なさそうだ。

また、ツマグロを5匹ぐらい集めて、カヤの葉の周りに縛り付けたビニール袋の中に閉じ込めた。これを1ヶ月後に調べてみるた。ツマグロを閉じ込めたビニール袋の部分の葉では、赤い斑点の数が異状に多いことを見出した。かわいそうなツマグロたちはまだそのビニールの中で生きていた。一方、ツマグロを入れないビニール袋の中は綺麗なままだった。

以上の実験から私は、以下のように結論した。カヤの葉の中心の葉脈の上に見られる赤い斑点は、ツマグロが草液を吸うために針状の口を突き刺してできた傷が原因である。このような傷の周りにアルカロイドが沈着して赤く着色することは、植物においては良く見られる現象であると、生物の大本先生が教えてくれたことは先にも述べた。

この結果をまとめて、読売新聞が主宰する高校生の科学研究コンテストに応募した。指導してくれた大本先生が熱心に進めてくれたからである。内心、かなりいいところまで行くはずだと思っていた。高校生の研究では、生物の生態・分布調査見をたくさんの仲間でやり、まとめたものが多い。それはそれで立派である。しかし、科学において大事なのは、(1)問題発見、(2)観察による仮説立案、(3)実験による仮説の検証、のサイクルを実行することである。生物の生態調査なんかでは、高々観察による問題点把握ぐらいでとどまる。残りは、今後の課題であるとか言ってごまかす場合が多い。一方でこの研究は、この一つの科学のサイクルを完全に閉じさせているのが私の自慢だった。

私の研究は、残念ながら山口県大会で高校最優秀賞にとどまり、他の研究が全国大会の上位を占めた。案の定、全国大会の上位は、「xxx地方の環境調査」とか「xxx鳥の分布」とかいうようなタイプの研究が占めていた。また、かなり指導者の先生の手が入っていたように思う。私は少しがっかりした。審査員たちは本当の科学というものを分かっていない。一方で、私は、自分の科学者としての才能に自信をもった。何万人という高校生の中で、ここまできれいな科学研究をしていた人間は恐らく私だけなのだ。何とかして科学者になれば、絶対それで飯を食っていける。では、どうやって科学者になるか。それが問題だった。父が勤める造船所では激しいリストラの嵐がやってこようとしていた。病気を患っていた父は、この嵐をまともにうけて心までも蝕まれかけていた。

本当の科学が分かる科学者がいる大学に進学しなければならない。奨学金を得なければならぬ。それまであんまり熱心でなかった受験勉強に、必死で取り組むようになったのはこのころだった。八幡製鉄の高炉が上げる煤煙が、のしかかるように私を見ていた。

後日談1:
私は、その後阪大理学部物理学科に進学し、今も理研で科学者をやっています。大本先生は、私が物理学科に進むということを聞いたときに少しだけ残念そうな顔をしました。私は、生物学は各論に終始しており、まだ私の才能が生かせる状況にないと判断していたように思います。この研究は、私の科学者としての最初の仕事だと思っています。植物の機械刺激に対する防御反応は、農学においては、現在の最先端テーマである事を理研で知りました。ゲノムの解読が進み、生物学が私が絡める状況になってきたと思っています。できれば、この高校時代の研究の続きをして今度は研究誌に投稿してみたいと考えています。いつのことになるかわかりませんが、、、。

後日談2:
先日、久しぶりに母校に行ってみると、私のこの時の全国大会のトロフィーがまだ職員室に飾ってあるのを知りました。どうも、全国大会ではベスト5には入らなかったものの、ベスト10以内の評価だったようでした。見る人は見ていてくれたということでしょう。なにせ、高校生がほとんど一人でまとめたもの。突っ込みどころは満載だったことを考えると、正当な評価だったかもしれません。大本先生は、私の自主性を尊重してあまり手を入れられませんでした。感謝しています。