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金谷萬六

実家で先祖に関する文書を発見した。以下に書き写した。私の母方の姓は金谷である。萬六は母の祖父、私の曾祖父である。この文書を母に送ってくれた清次は萬六の次男、母の叔父にあたる。清次は私にこう語ったことがある、「親父(萬六)が自分を置いて、一人山に入って行ったことがある。出てきたときに『さあ、帰ろうか』とぽつんと言った。あの時、親父は首をつるつもりで山に入ったのかもしれない」と。

先祖自慢になるかもしれないが、お盆が近いから許してもらおう。文書の性格から脚色があるかもしれないが、その概要は、私が清次、母から直接聞いた話とおおむね一致している。ただし、明治41年から大正2年までの記述の一部に混乱があるように思える。また、この文書が書かれた当時の価値観は、今のものと違う部分があることも考慮すべきである。ただし、記者が金谷萬六に取材して得た感動と尊敬は不変の価値を持つと私は思う。

明治・大正に生きた、金谷萬六は「奮闘進取、不撓不屈」の人であった。昭和・平成に生きるその曾孫は、自分も「奮闘進取、不撓不屈」の人でありたいと願っている。私の曾孫は私をどう評するだろうか。
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この写は大正九年(1920年)大島新聞社が大島郡出身者の動静を記述刊行したものであるが、「金谷家家系図」の作製の際協力された橘町役場収入役池田正彦氏がたまたま安下庄の公民館に保存されていた同誌を発見、父萬六の該当部分を複写したものである。
昭和54年7月11日
金谷清次
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大島郡大鑑
大正九年刊行
金谷萬六君
朝鮮群山金谷鉄工所主金谷萬六君は、血成男子として、もっとも痛快なる性格を有する人物である。その初めて、朝鮮に行したのは、明治二十四年であって、釜山に足を留め、鉄工所職人として勤むること三年。明治二十七年日清の間に風雲動き、月尾島前砲火相見ゆるに至るや、君は、陸軍通訳に志願して従軍したものである。而して二十八年和議成りて後、君は再び仁川に帰来した。帰任するや直ちに鉄工所を開業したのである。而も驚くなかれ当時君の投じたる資本金正に五十銭であったのだ。幸いにして君の物に動せざる卓落の風格、事業は金力によりて行はず、実力によりて行ふという大信念は、よく自家の事業をして盛大ならしめ、開始当年早くも一千五百金の収入を見るに至ったのだから、傑いではないか。

けれ共、天は尚、君をして幸福の人足らしむる事を拒み、翌二十九年病床の人となるをやむなきに至り、前年に得た収益を全部これに投じたる上、尚ほ且つ五百金の負債を生じたのである。唯幸いにも君の知己先輩は、君の人物手腕を信頼して、甚大なる声援を与えたので、この失敗は期年ならずして取り返し、明治30年には、約八千円の利益を収めたから初めて君は郷里に両親を省した。而して、児の錦衣帰郷せるを此の上もなく喜ぶ両親の顔を見て、君も初め安んじたといふが左もあったろう。
明治32年群山開港の年、同地視察に赴き、その地形将来有望なるを察して、其年同地に転じ、農具製造業を開始し、別に朝鮮向き雑貨卸小売商を令夫人経営せしめた。此の両事業は、共に順調に成功し明治四十一年までに、早く既に群山一流の事業家となり、その人望四方を圧し、或ひは商業会議所議員、或ひは民団議員と、各種の公職に推され、群山の金谷として声望真に隆々たるものがあった。人は、此の時代を以って、君の全盛時代といって居る。

群山における君が失敗の因となしたるものは、その山林を購入して、材木の伐採を開始したるにある。蓋し、その失敗たるや、実に不可抗力による天災であって、君が事業を見るの明ならりし為ではない。若し、人の生涯を黄金力にのみ算定するならば、此の点に於いて、君は決して幸福でなく、寧ろ薄幸と謂うべきである。けれ共、男児の世に処し社会に立つ、その真価は必ずしも、黄金の多寡に寄るものではなく、奮闘進取、不撓不屈の大精神を以って、敗るるを悲観せず、勝も亦奢らず、断断固として所信に邁進するの勇気、度量、闘志にあるを思う時、君の如き、正に之れ、男児の真骨頂を有せるものとなしてよろしい。閑話休題、明治四十一年二年の頃の君は、経験ある親族のものと共に、中清南道に山林を購入し、竜山師団司令部建築用材として之が伐採を開始した。君が不幸の因は端をここに発したのである。

山林伐採の真最中、当時有名なる大洪水が起こった。中南初まってと言はれるほどの大水であった。群山沖合の海上には材木が水に流されて点々と浮流して居る、之を発見した君は直ちに自家伐採中の山林の現状を憂ひつつありしに、果たせる哉、当日迄に伐採した材木三十万才は全部流失したといふ報に接した。更に引き続いて暴徒の襲撃に遭ひ、約二千円を強奪された。天災の至ること、かく打ち続いたので、君は断然山林伐採を中止に決し、雇ひ込みたる職人には、一人百円づつの涙金を渡して事業中止を宣告したものだ。ところが職人等は、切に君の再起を奨め兎にも角も残れる材木の伐採を継続せんことを主張するので、君も意を代へ、再挙を計った所が、再び洪水に見舞われて亦た起つに能はざるに至った。山林に経験ありし君の義兄が、一朝病の為にこの世を去る等、君の周囲は、実に呪はれたるが如き形である。此の間に君が大なる負債を負ふたること勿論。

当時、君の全財産は約六万円と評価されて居た。君は此の全財産を投げ出して負債の償却に充てた。湖南有数の名を勝ち居たりたる金谷鉄工所の整理はかくして大正六年より初まり、その全く終了したる大正二年二月であった。整理の終了と共に、君は全く一切の責任を果たしたるものとして、さらに活躍の舞台に人となった。昨年迄は、一流の紳士として、一流の神商として、その一挙手、一投足、地方に重きをなしたるのであるから、人情の常から言えば、到底、身を落として活動するてう事は出来難いのである。全盛から落魄、極端から極端に走りながら、君は再び群山で活路を発見すべく、身自ら槌を取って、多年経験のある鉄工事業を初めたのである。これが大正二年の三月で負債整理を終了した翌月である。物に拘泥せざる此の態度、毀誉に超然たる此の風格、正に男子はかくあるべしとは、君を知るものもの、等しく痛感したる所。君が爾来思はざる知遇を友人並に先輩より受けたるは職として之に因るのである。

げに、君が自ら槌を取って立ちしよりといふものは、一日の就眠時間二時間乃至四時間を出でない、一日に少なくも他の三日分位の仕事をしつつある。之は現在も尚然りであって、同地にある山口県選出代議士坂上貞信君の如きは、大ひに之を壮とし、偉とし、君を鞭撻、激励して、声援助力したものだった。

此の大努力、大奮闘は、今や君をして再び成功の彼岸に達せしめんとしつつある。往年の黄金時代を出現せしめんとしつつある。君は之を以って、先輩知己の知遇に之れ因ると言ふて居るけれ共、君自身に偉大なるなくんば、到底能はざるのである。

君は日良居油良の出身、男児の気風を有せる一人者として推どうするに憚らない。切に自重を祈る。