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伊能忠敬:50歳代からの挑戦 前半生の経験と新技術との結合

伊能忠敬は1795年に佐原から江戸に出て幕府天文方の高橋至時に入門し、天文学を本格的に始めた。当時彼は50歳だった。測量においては天測が重要である。例えば、現在のカーナビはGPS衛星を「天測」して自分の位置を割り出す。天文学と測量学、そして暦学は本来一体のものである。
至時らは、最新の天体力学理論を考慮した「寛政暦」を1797年に完成させるが、さらに精度の高い暦を作るためには、地球の半径を知る必要があることに気づいた。例えば、地球の半径は子午線1度の弧長から計算できるが、当時日本で知られていた値には1割以上の差があって信用できなかった。
そこで、至時と忠敬は子午線1度の弧長を自ら実測することを計画する。できるだけ長い子午線弧長と対応する場所の北極星の高度差を測る必要がある。幸いなことに東北日本はほぼ南北に伸びていて、東京と札幌で約8度の緯度差がある。東京から測量と天測をしつつ北海道まで行けばよい。二人は幕府への働きかけを開始する。折から、帝政ロシアの北海道へ訪問が頻繁になり緊張が高まっていた。北海道の正確な測量と地図作成は、幕府の意図と一致していた。困難な交渉の末、1800年4月に北海道への第一次測量隊が出発した。その後の15年間、忠敬は日本全国にわたる9回の測量遠征を行い、日本の科学史に大きな足跡を残した。
至時と忠敬の目論見どおり、地図作成の副産物として、子午線1度の弧長も約110.7kmと決められた。現在、緯度35-41度の子午線1度の弧長は110.9 kmとされている(地球の形が真球ではないので、場所によって違う)。一方、至時と忠敬が幕府と交渉を始めたころ、フランスでは1mの定義のための子午線長測定が進行中だった(1798年完遂)。もともとのメートルの定義にしたがい、地球が完全な球であれば、この値は10000/90≅111.1 kmとなる。これと現在の値との差(0.2 km)を1800年ごろの世界最先端の測量精度と考えてもいいだろう。忠敬の測定精度が当時の世界標準から見て遜色のないものだったことが分かる。
忠敬は17歳で利発さを見込まれて伊能家に婿入りし、佐原村の世話役として村内や幕府との困難な交渉にあたった苦労人だった。また、天明の大飢饉(1782-1788)を乗り越えて、家業を大きくした有能な実業家だった。
彼の偉業は、その前半生で培った経済力、交渉力、統率力と、高橋至時門下で培った測量と天測の最新技術が結合し始めて実行できたものだった。まず、経済力だ。忠敬は第一次測量遠征の費用の約三分の2を個人で支弁している。これを現在の貨幣価値に換算すると二千万円を超えるという。9次にわたる測量遠征は、「隠居の趣味」というには膨大すぎる資金を要したはずだ。次に、交渉能力である。彼の測量日記を読むと、幕府役人との交渉に始まって、旅先での現地役人との馬や人足、隊員のわらじの手配についての交渉経緯が細々と記載されている。苦労が偲ばれる。最後に統率力である。測量は1日40kmも移動しつつ、夜はデータ整理、晴れれば天測を行うという強行日程で行われた。その中で隊員の士気と健康を保つのは容易ではなかったろう。逆に、忠敬が若年時に測量隊長に抜擢されても史実のように測量遠征を実行できたとは思えない。プロジェクト遂行には老獪さも必要なのだ。
今や、50代は思い切った攻めの人生を始めるよい機会である。30、40代は家族に対する責任が重いので、なかなか思い切った決断ができない。ところが今や寿命が延びて、病気にさえならなければ80歳に近くまで元気で仕事ができそうだ。60歳から数えても20年もある。それならもう一仕事できる。一方、IT技術の発達で、新分野の勉強も以前に比べて遥かに容易になった。逆に、世の中の進歩が加速して、たとえ同じ仕事を続けてもかなりの量の勉強を続けなければ、自分の専門知識が陳腐化してしまう。どうせやるなら、世の中で本当に重要だと自分が思うことを正面から攻めてみたいものだ。

2018年8月24日 フジサンケイビジネスアイ 高論卓説用の原稿