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学生出征者の慰霊塔

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モスクワ国立大学に行ってきた。キャンパス内にある第二次世界大戦で戦死した学生出征者の慰霊塔。多くはドイツとの戦いで死んだのだろうが、日本と戦った人もいるかもしれない。彼らがそのままこのキャンパスで勉強していたら、どんな仕事をしただろうか?今はただ、学問の場から駆り出され、野蛮な行為に身を投じて死んで行ったものを悼むばかりだ。慰霊塔の基壇にガスの火がチロチロと風に揺れていた。合掌。

STAP騒動について

まず、理研に所属するものとして今回の誠に恥ずかしい事態で世間をお騒がせしたことを深くお詫びしたいと思います。理研の判断と小保方氏の記者会見が終わり事態の全貌がおぼろげながら見えてきました。

 そこで、「小保方氏にSTAP細胞の研究に没頭させるべきだ」とする意見がかなりある様なので、科学者の端くれとして意見を述べさせていただきます。

 一連の経緯で明らかになったことは、彼女が科学者として当然身に着けなければならない必須事項がまったくできていないということです。それは、理研の委員会および理事会が断定し、今回、本人も公式にそれを認めたようです。これはいわば、ヘルメット、安全靴着用が義務付けられている工事現場に、無帽、ハイヒール、ミニスカート着用で歩き回っていたことに等しいです。当然、大事故を引き起こしてしまい、本人も関係者も理研も科学界も大きな傷を負ってしまいました。それがはっきりした段階で、ご本人には工事現場から退去をお願いし、なぜ、そんな素人が現場に入り込んだのかの安全上の管理責任が問われることになります。実際、そのために再発防止の委員会が外部の有識者を中心に理研に組織されました。ここでは、その責任の所在、組織としての管理の問題点の指摘と改善が議論されることになると思います。一方、ご本人については、現場に立つものが持つべき基本事項を本当に身に着けたことを確認しないと、現場復帰はありえないのは当然のことだと思います。それは、大学に戻ってやはり問題となっている博士論文を書きなおすことから初めて、科学者としてのイロハを学んでいただくことだろうと私は思います。

 一連の経緯で明らかになった彼女の不注意連発状況をみると、厳密さが要求される今後のSTAP実証研究に彼女が実験担当者として参加することは百害あって一利なしと私は思います。もちろん、発見したとする実験の詳細のレポートを提出していただきたいと思いますが、あのずさんさでは役に立たないかもしれません。

 もちろん、誰かが彼女の研究を私的に応援することは自由です。ぜひ、スポンサーとなって彼女がやりたい研究を支援してあげてください。実験設備や運用費は相当高額であることは覚悟してください。ハイリスクであることを認識したうえで彼女のSTAPに賭ける投資家がいてもいいと思います。ただし、税金を使って理研がそれを行うことは、私は反対です。どう考えても納税者に対して説明できません。

科学者モドキ

科学者がもうかる商売になるにしたがって、科学者の擬態をし「できる科学者」に成り済ます「科学者モドキ」の生息ニッチが広がっているようだ。理研は、彼らの生息数が比較的少ないいいところであったが、だんだん増えてきたように思う。彼らの擬態能力は年々向上し、それを見破るのは、容易ではなくなってきている。科学者モドキが一人でもチームに入ると、その生産性ががっくり落ちるので、何とか排除したいが、彼らはプレゼンテーション能力だけは抜群の場合が多いので、1時間程度のプレゼンテーションでは騙される。本物とモドキを見分けるには、とりあえず雇ってみて、何ができるかを気長に見るしかない。科学者モドキの行動には、データを仲間に見せない、仕事を囲い込んで離さない、言ったこと比べてやれたことが極端に少ない、ろくな論文が書けないなどの共通の特徴があり、1年程度の経過で確実に見分けることが可能である。それまでは決して責任ある立場を与えないことだ。彼らを見分ける簡単は方法はない。ラボノートをつけても、研究室共通のデータベースを作っても、直ちに彼らがそれをとり込んだ新しい擬態法を作るので、決め手にはならないのだ。ラボノートの記述だけは立派だが中身はさっぱりだとか、データベース登録件数は実験室で一番だが、何が登録されたかは本人しか知らないとかいうことになりがちだ。返って見分けがつきにくくなるのように思う。とにかく、責任者がコツコツと議論してその能力を見極めるのが重要と思う。

科学における論文の重要性

科学者にとって論文を書くことは最も重要な仕事である。科学研究の主要な最終生産物は論文である。それは、論文を書いて出版することにより、多分に属人的な発見や発明が、社会全体の知恵に昇華するからである。論文を読めば、誰でも(一定以上の技量と設備を持っていれば)発見された現象を再現し、自分のものとすることができる。それは、改めて試行錯誤して再発見するよりずっと短時間ででき、しかも簡単で経費もかからない。

このように貴重な発見・発明を公表することの代償として、科学者たちは自分の論文の中でその論文を引用し、その発見に対して敬意を表す。このようにして発見や発明が論文を単位として、科学界に流通する仕組みになっている。多数の科学者の仕事がネットワークを形成し、総体として理解が進んでいくのだ。たとえば、ノーベル賞は出版された科学成果のみを対象としているのも、その表れである。如何にすごい発明をしても、論文として書いて、出版して世の中に公表しなかったものは、科学界では評価されない。

また、単純な事実としての発明や発見は、それだけではその価値の一部でしかない。それを整理し、過去の結果と比較することにより、研究史上に正しく位置付けられることが、それにもまして重要だ。それは論文を書く過程で得られる。何か重要そうな事実を発見したとき、その意味がはっきりしていないことが多い。自分のデータを整理し、過去のデータ(論文で得た他人のデータと研究室内にある未発表のデータ)と比較し、仲間と議論することにより、その意味と研究史上の位置づけがだんだんと明らかになってくるのである。それは、属人的な発見・発明を、流通可能な社会知にする知的で創造性を要求する重要な作業である。その過程で得られた俯瞰的な描像は、論文の著者と読者に研究の次の方向に関する貴重な示唆を与える。

さらに、論文は時を超える。科学者は論文の書き方に関しては極めて保守的で、その基本形式はガリレオ以来、ほとんど変わっていない。ガリレオと我々は論文を通して400年もの時を超えて語り合えるのだ。逆にいえば、今我々が書いている論文は400年後の後輩科学者への手紙でもあるのだ。私はこんな風に研究して、こんな結果を得たよ、という。私の10世代後の研究者が、私の論文を読んで、「良くぞこんなマイナーな研究を400年前にやっておいてくれた。助かった。」と感謝されるかもしれない。そんなことを想像するだけで楽しい。実際、私は、自分が生まれた頃の論文を読んでは、感謝しきりの毎日だ。

最後に、いったん出版されれば、全世界にコピーが存在することになるので、そこに書かれた発明・発見は、国家レベルの事故や災害でも失われることがなくなることも指摘しておこう。

したがって、論文は科学者にとって「お金」と同等の意味を持つ。多くの引用があり、誰がも知っているいい論文を書いた著者は、尊敬され、信用される。研究費も集めやすい。したがって、論文に不正があるということは、経済行為でいえば、贋金を作ったり、借金を返さないで平気でいるというような行為と同等な悪いことであると科学者は考えている。

繰り返すが、論文は科学研究の主要な最終成果物である。科学者の給料は、この論文を書くという行為に対して払われていると私は思っている。

Shinto The Ancient Religion of Japan W.G. Aston読了

1907年にReligions: Ancient and Modernシリーズの一冊として書かれた本。古事記や日本書紀の神話記述を中心に、日本の神とその信仰をまとめている。戎神については、イザナギ、イザナミの最初の息子たるヒルコに位置付けている。日本神話のおおむね正しい英語での記述が、100年以上前に存在したことは敬意を表するべきだ。英国人はすごい。ただし、記述は通り一遍で、日本独特の御霊信仰に関する踏み込んだ記述はない。天神は「勉強と書道の神様」とだけ記述されている。熊沢長範(大盗賊で義経を襲ったが反撃されて殺された)や西野文太郎(森有礼暗殺犯)などの犯罪者も信仰の対象になっているのは変だとの記載がある。

映画評 ブレードランナー

ブレードランナーは1982年公開。言わずと知れたSF・サイバーパンク映画の金字塔である。とにかく敵役のレプリカント(火星から逃げ出してきた人造人間)たちが強い。特にリーダーのバッティーは、殴ってもナイフで切っても、銃で撃ってもへっちゃら。戦闘技術も卓越していて、主人公のデッカード(ハリソンフォード)はぼこぼこにされる。さらには、壁に隠れてハアハア休んでいたら、その壁をぶちぬいて鼻先に腕がつきだすというおきて破りの鉄腕ぶり。とっても怖かった。この怖さは、同じリドリー・スコットが監督のエイリアンや、後のターミネーターに共通のものだ。当時エイリアンをまだ見ていない私には、衝撃的で新鮮だった。

さらに、この映画のすごいところは、人間性とは何かについてしつこく鋭く問うていることだ。主人公デッカードは、何とかんとかレプリカンとを仕留めてゆく自分が、実はレプリカントではないのかと疑惑を抱き始める(レプリカントは製造時に適切な記憶を植えつけられる)。さらに、レプリカントの一人レイチェルに恋してしまう。さらにその混乱は、彼女のオリジナルのタイレル社(レプリカントの製造元)社長の娘(名前は忘れた)に誘惑され、拍車がかかる。「私はオリジナルだから、レイチェルよりよいはず」というわけだ。さあ、タイレル社ビルの崩壊の末一緒に逃げた女性は、一体彼が愛したレイチェルだったのか、それとも彼女のオリジナルだったか?「あなただったらどっちがいいですか?」と映画が問いかけてくる。油断のならない映画だった。
というと、小難しいようだが、アクション映画として十分楽しめる質の良い娯楽作品であることも保証する。ぜひ、一度ご賞味あれ。

米国National Science Foundation本部ビル玄関の名板

Liberty is the great parent of science and of virtue; and a nation will be great in both in proportion as it is free.
Thomas Jefferson 1743-1826
自由は科学と美徳の偉大な源である。そして、国家は自由になるにつれて、科学と美徳の両方で偉大になる。
トーマス・ジェファーソン 1743-1826
(翻訳は戎崎、写真は戎崎が2010年6月28日に撮影)

映画評 少林寺

アクション映画列伝(1)
http://www.youtube.com/watch?v=YWFA0Q4ega4
1982年公開の「少林寺」は衝撃的だった。中国武術大会の優勝者が総出演。すべてが本物の体さばきと技と体力。主演のリー・リンチェイはこの映画がデビュー。この人の主演はほとんど見ている気がする。その後ジェット・リーが彼の芸名となった。ちなみに2011年公開の新少林寺は見る影もない駄作だった。

映画評 ボーン・アイデンティティ

アクション映画列伝(2)

「ボーン・アイデンティティ」は2002年公開、マット・デイモンの出世作だったと思う。かつての同僚の殺し屋が、ガラスを割って登場して始まる格闘シーンは、短いが動きが鋭く、目に見えないほど高速で見ごたえがある。米国大使館からの脱出のシーンでも、マット・デイモンの鍛え上げた肉体がアクション全体に真実味を与えている。カーチェースも鋭く激しい。ボーンシリーズは三部作あるが、どれもアクションシーンがすばらしく楽しめる。

映画評 ドラゴンキングダム

アクション映画列伝(3)
2008年公開の「ドラゴンキングダム」はジャッキー・チェンとジェット・リーの二大カンフースターが初共演のカンフー映画だ。とにかく二人のカンフーが素晴らしく、格闘シーンは最高クラスのものが連続。二人の体術とワイヤープレーが高いレベルで融合している。ジャッキー・チェンの酔拳も健在。クライマックスシーンは、ワイヤープレイと特撮に傾きすぎだが、それはそれで楽しめた。ロードオブザリングにオマージュした部分もある。最後の方に出てきた孫悟空が、香取信吾そっくりなのは笑えた。主人公のジェイソンが、次第に逞しくなってゆく。その意味で青年の成長ストーリとしても好感が持てた。