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還元TCA回路の光触媒による駆動: Driving the reactions in reverse TCA cycle by photocatalysis.

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還元TCA回路におけるオキザロ酢酸からリンゴ酸(1)、フマール酸からコハク酸(2)、コハク酸からオキソグルタル酸(3)、オキソグルタル酸からオキザロコハク酸(4)、オキザロコハク酸からイソクエン酸(5)の5つの還元反応が、硫化亜鉛 (ZnS)のナノ粒子の光触媒効果によって、駆動されることが分かった(Zhang and Martin 2006)。反応を駆動する還元力は半導体であるZnSの伝導帯電子が供給する。伝導帯電子を作るために、3.6eV (344 nm)以上の紫外線を必要とする。反応(3)と(4)では、CO2分子が一個づつ有機酸のなかに取り込まれる。

1) Zhang, X.V. and Martin, S.T., 2006, Driving Parts of Krebs Cycle in Reverse through Mineral Photochemistry, J. Am. Chem. Soc., 128,
16032-16033.

風評被害を根絶する検出器:Radiation Detector roots out the damage from harmful rumors

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東日本大震災から4年がたちますが、震災の影響は色々なところに残っています。福島県の農民は原子力発電所の事故で放出された放射性セシウムの風評被害に悩まされています。作った野菜や果物、お米に放射性セシウムが含まれているのではないか、という不安から売れなかったり、安い値段でしか買ってもらえないという事が起きています。私たちはこの状況を変えるには、すべての農産物の放射線量を測定し、販売できればよいと考えました。ところが、これまでの検出器は感度を持つ部分(シンチレータ―)が底面にしかなかったので、野菜のような形のあるものを測定すると、感度部分への平均距離が変わるため、放射線量が正確に測れませんでした。そのため、食品を小さく破砕してから測定していますが、破砕作業は大変な手間がかかります。また、測定後の破砕された試料は捨ててしまわなければなりませんでした。

試料を包み込むようにシンチレータ―を配置すれば、どんな形をしていてもシンチレータ―までの平均距離があまり変わらないので、破砕しなくても正確な測定ができますが、現在使われているシンチレーターを用いるととても高額になります。そこで、原子力発電所事故由来の放射性セシウムと天然由来の放射性カリウムの割合もわかるような工夫を施した、低コストで加工が容易なシンチレーターによる測定システムを開発しました。魔法瓶サイズの円筒形にシンチレータ―を成形し、その中に果物や野菜、魚をそのまま投入し、その中の放射線量が測れる検出器を開発しました。

この原理を使った検出器が共同研究先である株式会社ジーテックにおいて製品化され、福島県内の農協や道の駅、幼稚園などで利用が始まっています。目の前で測定し、実際に放射能がないことを確認してそのまま売買したり、園児たちの給食に供したりできるので、農民やお客さん、給食担当者の反応も上々です。福島の農産物の多くが測定値付きで店頭に並ぶようになりつつあります。もちろん、ほとんどの作物が基準を大きく下回って安全なことを示しています。今後は、装置を大型化してトロ箱に入れた魚介類や野菜をそのまま測定できる装置などに展開したいと考えています。折から、福島県相馬港の試験操業が始まっています。

最後に、これが実現できたのは、シンチレーターのさまざまなところで発生する光子をあまさず丁寧に拾い集める一連の技術とノウハウがあったからであることを強調したいと思います。これは、宇宙からくる微弱な放射線を測るために、長い年月をかけて私たちが培ったものでした。宇宙の過酷な環境で安定に動作し、微弱な信号をもれなく集める検出器の応用先が、実は福島の農民のそばにもあったのです。私が所属する理化学研究所は、「基礎から応用まで」を合言葉に1917年に創立されました。創立100年まであと2年です。諸先輩に倣い、宇宙物理学という基礎科学分野で培われた技術を、風評被害で悩む農民のために応用してその緩和に少しでも貢献できたことを、私たちは誇りに感じています。

Fuji Sankei Business i. 2015年3月12日 高論卓説
許可を得て転載

生命進化の統一理論:超新星、放射性火山灰降下、ゲノム不安定、大絶滅による進化United theory of biological evolution: Disaster-forced evolution through Supernova, radioactive ash fall-outs, genome instability, and mass extinctions 

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大災害による生命進化の一般的な理論的な枠組みを提案する。その枠組みは、ダーウィンの系統漸進説、エルドリッジ・グールドの断続平衡説を包含し、さらに、大絶滅による大進化、そして異所性、側所性、同所性種分化の理論を包含している。それは、超新星遭遇による全球的大災害、もしくは大陸性アルカリ火山による放射性の火山灰降下による局所的大災害によって、種同士の生殖隔離が、どのように確立するかを記述している。

この新しい進化モデルは、大災害によって強制された種分化が、高い放射線レベルによる高い染色体変異率、小さな個体数、そして、生息域の収縮による孤立、の3つの要因で駆動されることを指摘している。半孤立したグループの母集団からの種分化を記述する簡単な数値モデルを構築し、種分化に必要な世代数を評価した。それは観察例から得られる値と整合的である。例えば、変異率が1世代あたり、1個体あたり千分の一から十万分の一と小さい場合は、種分化には少なくとも10万世代かかる。しかし、それが0.1近くまで大きいと、側所的な場合に、それよりもずっと早く千世代くらいで種分化する。さらに、1近くまで大きくて、有効個体数が20-30位まで少ないと、同所的であっても、種分化が起きる。

超新星遭遇による全球的な大災害や放射性火山灰降下による局所的な大災害時は、高い放射線レベルのために、染色体変異率が非常に高くなる。このような、急速な種分化は、カンブリアの生命多様性の大進化のような大絶滅に伴う大進化も説明する。同じような急速な進化は、小規模ではあるが、現在のアフリカ大地溝帯におけるシクリッドや人類を含む大型類人猿の進化に見られる。これらは、大陸性アルカリ火山による放射性火山灰降下によるものと考えられる。

1) Ebisuzaki, T. and Maruyama, S., United theory of biological evolution: Disaster-forced evolution through Supernova, radioactive ash fall-outs, genome instability, and mass extinctionsGeoscience Frontiers, 6, 103–119.

一人の発見から始まる苦悩 科学と「言論の自由」は不可分

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米国National Science Foundation (全米科学財団)のワシントン本部のビルの銘板には、以下の言葉が刻まれている。
Liberty is the great parent of science and of virtue; and a nation will be great in both in proportion as it is free. Thomas Jefferson 1743-1826
<自由は科学と美徳の偉大な源である。そして、その自由に比例して、国家は科学と美徳の両方で偉大になる。トーマス・ジェファーソン 1743-1826> (翻訳は筆者)
 科学と自由は不可分であるという強い主張が読み取れる。実際、科学は言論の自由がない場所では根付かない。科学者は真実を求めて研究を続けている。ときに、大きな発見を成し遂げる。その発見が偉大であればあるほど、第一発見者の孤独は深い。どんな発見も、常にたった一人の主張から始まるからである。
誰も言っていないことをただ一人主張し始めることは怖い、例えそれがちょっとした少人数の会議であっても。それを全世界の口うるさい専門家たちに向かって言い始めるのだ。「間違っていたらどうしよう」「何かの勘違いではないか?」「馬鹿にされるかな。もうすでに誰かが言っていて、当たり前のことなのではないか」「変なことをいうやつとのレッテルを張られて予算が来なくなったらどうしよう」などなど、心配すればきりがない。
だからこそ、第一発見者は、繰り返し、繰り返し、繰り返し、結果をチェックし、式を見直す。夜中に飛び起きてノートをチェックし、間違いを見つけて消沈し、解決法を脳から絞り出して、もう一度最初から論理を組み立てなおす。この自分一人で揉み込んでいる時間は、本当につらい。生みの苦しみとはこのことをいうのだと思う。
日本では少ないが、海外ではさらに同僚やボスにアイデアを盗まれる心配もしなければならない。その上、「宗教上の教義に違反している」とか、「ある団体が押しかけてきて公衆の前で土下座させられる」とか、「社会を乱すとかスパイの罪で逮捕される」とか、「複数の分野で業績を上げたという理由だけで、精神科病院に強制入院させられる」とかの心配をしなければならないとしたら、発見の発表どころではなくなるし、そもそも生みの苦しみに耐えるのが馬鹿馬鹿しくなると、小心な私はつい考えてしまう。心から思う、ガリレオ・ガリレイは偉大だったと。
 孤独な第一発見者は、身近の信頼できて有能な科学者にまず話をして、意見や批判をもらいつつ議論することから始める。この最初に話を聞く科学者から、納得してくれないまでも、健康な批判精神にのっとって建設的な意見をもらい、「自分もよくわからないからぜひ頑張ってもう少し調べてみるといい」と言ってもらえるだけでどんなに孤独感が安らぐか知れない。そういう友達はとても大事だ。自由のない国や地域では、この最初の相談者にも、先に指摘したような問題が発生すると思う。
 このように「言論の自由」は、科学がその国や地域に根付いて自律的に成長するために必要な空気や水のようなものと私は考える。自由のない国が一時的に伸びることはあっても、科学技術によった近代国家として自立できるとは私は思わない。
Fuji Sankei Business i. 2015年2月13日 高論卓説
許可を得て転載

学生出征者の慰霊塔

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モスクワ国立大学に行ってきた。キャンパス内にある第二次世界大戦で戦死した学生出征者の慰霊塔。多くはドイツとの戦いで死んだのだろうが、日本と戦った人もいるかもしれない。彼らがそのままこのキャンパスで勉強していたら、どんな仕事をしただろうか?今はただ、学問の場から駆り出され、野蛮な行為に身を投じて死んで行ったものを悼むばかりだ。慰霊塔の基壇にガスの火がチロチロと風に揺れていた。合掌。

STAP騒動について

まず、理研に所属するものとして今回の誠に恥ずかしい事態で世間をお騒がせしたことを深くお詫びしたいと思います。理研の判断と小保方氏の記者会見が終わり事態の全貌がおぼろげながら見えてきました。

 そこで、「小保方氏にSTAP細胞の研究に没頭させるべきだ」とする意見がかなりある様なので、科学者の端くれとして意見を述べさせていただきます。

 一連の経緯で明らかになったことは、彼女が科学者として当然身に着けなければならない必須事項がまったくできていないということです。それは、理研の委員会および理事会が断定し、今回、本人も公式にそれを認めたようです。これはいわば、ヘルメット、安全靴着用が義務付けられている工事現場に、無帽、ハイヒール、ミニスカート着用で歩き回っていたことに等しいです。当然、大事故を引き起こしてしまい、本人も関係者も理研も科学界も大きな傷を負ってしまいました。それがはっきりした段階で、ご本人には工事現場から退去をお願いし、なぜ、そんな素人が現場に入り込んだのかの安全上の管理責任が問われることになります。実際、そのために再発防止の委員会が外部の有識者を中心に理研に組織されました。ここでは、その責任の所在、組織としての管理の問題点の指摘と改善が議論されることになると思います。一方、ご本人については、現場に立つものが持つべき基本事項を本当に身に着けたことを確認しないと、現場復帰はありえないのは当然のことだと思います。それは、大学に戻ってやはり問題となっている博士論文を書きなおすことから初めて、科学者としてのイロハを学んでいただくことだろうと私は思います。

 一連の経緯で明らかになった彼女の不注意連発状況をみると、厳密さが要求される今後のSTAP実証研究に彼女が実験担当者として参加することは百害あって一利なしと私は思います。もちろん、発見したとする実験の詳細のレポートを提出していただきたいと思いますが、あのずさんさでは役に立たないかもしれません。

 もちろん、誰かが彼女の研究を私的に応援することは自由です。ぜひ、スポンサーとなって彼女がやりたい研究を支援してあげてください。実験設備や運用費は相当高額であることは覚悟してください。ハイリスクであることを認識したうえで彼女のSTAPに賭ける投資家がいてもいいと思います。ただし、税金を使って理研がそれを行うことは、私は反対です。どう考えても納税者に対して説明できません。

科学者モドキ

科学者がもうかる商売になるにしたがって、科学者の擬態をし「できる科学者」に成り済ます「科学者モドキ」の生息ニッチが広がっているようだ。理研は、彼らの生息数が比較的少ないいいところであったが、だんだん増えてきたように思う。彼らの擬態能力は年々向上し、それを見破るのは、容易ではなくなってきている。科学者モドキが一人でもチームに入ると、その生産性ががっくり落ちるので、何とか排除したいが、彼らはプレゼンテーション能力だけは抜群の場合が多いので、1時間程度のプレゼンテーションでは騙される。本物とモドキを見分けるには、とりあえず雇ってみて、何ができるかを気長に見るしかない。科学者モドキの行動には、データを仲間に見せない、仕事を囲い込んで離さない、言ったこと比べてやれたことが極端に少ない、ろくな論文が書けないなどの共通の特徴があり、1年程度の経過で確実に見分けることが可能である。それまでは決して責任ある立場を与えないことだ。彼らを見分ける簡単は方法はない。ラボノートをつけても、研究室共通のデータベースを作っても、直ちに彼らがそれをとり込んだ新しい擬態法を作るので、決め手にはならないのだ。ラボノートの記述だけは立派だが中身はさっぱりだとか、データベース登録件数は実験室で一番だが、何が登録されたかは本人しか知らないとかいうことになりがちだ。返って見分けがつきにくくなるのように思う。とにかく、責任者がコツコツと議論してその能力を見極めるのが重要と思う。

科学における論文の重要性

科学者にとって論文を書くことは最も重要な仕事である。科学研究の主要な最終生産物は論文である。それは、論文を書いて出版することにより、多分に属人的な発見や発明が、社会全体の知恵に昇華するからである。論文を読めば、誰でも(一定以上の技量と設備を持っていれば)発見された現象を再現し、自分のものとすることができる。それは、改めて試行錯誤して再発見するよりずっと短時間ででき、しかも簡単で経費もかからない。

このように貴重な発見・発明を公表することの代償として、科学者たちは自分の論文の中でその論文を引用し、その発見に対して敬意を表す。このようにして発見や発明が論文を単位として、科学界に流通する仕組みになっている。多数の科学者の仕事がネットワークを形成し、総体として理解が進んでいくのだ。たとえば、ノーベル賞は出版された科学成果のみを対象としているのも、その表れである。如何にすごい発明をしても、論文として書いて、出版して世の中に公表しなかったものは、科学界では評価されない。

また、単純な事実としての発明や発見は、それだけではその価値の一部でしかない。それを整理し、過去の結果と比較することにより、研究史上に正しく位置付けられることが、それにもまして重要だ。それは論文を書く過程で得られる。何か重要そうな事実を発見したとき、その意味がはっきりしていないことが多い。自分のデータを整理し、過去のデータ(論文で得た他人のデータと研究室内にある未発表のデータ)と比較し、仲間と議論することにより、その意味と研究史上の位置づけがだんだんと明らかになってくるのである。それは、属人的な発見・発明を、流通可能な社会知にする知的で創造性を要求する重要な作業である。その過程で得られた俯瞰的な描像は、論文の著者と読者に研究の次の方向に関する貴重な示唆を与える。

さらに、論文は時を超える。科学者は論文の書き方に関しては極めて保守的で、その基本形式はガリレオ以来、ほとんど変わっていない。ガリレオと我々は論文を通して400年もの時を超えて語り合えるのだ。逆にいえば、今我々が書いている論文は400年後の後輩科学者への手紙でもあるのだ。私はこんな風に研究して、こんな結果を得たよ、という。私の10世代後の研究者が、私の論文を読んで、「良くぞこんなマイナーな研究を400年前にやっておいてくれた。助かった。」と感謝されるかもしれない。そんなことを想像するだけで楽しい。実際、私は、自分が生まれた頃の論文を読んでは、感謝しきりの毎日だ。

最後に、いったん出版されれば、全世界にコピーが存在することになるので、そこに書かれた発明・発見は、国家レベルの事故や災害でも失われることがなくなることも指摘しておこう。

したがって、論文は科学者にとって「お金」と同等の意味を持つ。多くの引用があり、誰がも知っているいい論文を書いた著者は、尊敬され、信用される。研究費も集めやすい。したがって、論文に不正があるということは、経済行為でいえば、贋金を作ったり、借金を返さないで平気でいるというような行為と同等な悪いことであると科学者は考えている。

繰り返すが、論文は科学研究の主要な最終成果物である。科学者の給料は、この論文を書くという行為に対して払われていると私は思っている。

Shinto The Ancient Religion of Japan W.G. Aston読了

1907年にReligions: Ancient and Modernシリーズの一冊として書かれた本。古事記や日本書紀の神話記述を中心に、日本の神とその信仰をまとめている。戎神については、イザナギ、イザナミの最初の息子たるヒルコに位置付けている。日本神話のおおむね正しい英語での記述が、100年以上前に存在したことは敬意を表するべきだ。英国人はすごい。ただし、記述は通り一遍で、日本独特の御霊信仰に関する踏み込んだ記述はない。天神は「勉強と書道の神様」とだけ記述されている。熊沢長範(大盗賊で義経を襲ったが反撃されて殺された)や西野文太郎(森有礼暗殺犯)などの犯罪者も信仰の対象になっているのは変だとの記載がある。

映画評 ブレードランナー

ブレードランナーは1982年公開。言わずと知れたSF・サイバーパンク映画の金字塔である。とにかく敵役のレプリカント(火星から逃げ出してきた人造人間)たちが強い。特にリーダーのバッティーは、殴ってもナイフで切っても、銃で撃ってもへっちゃら。戦闘技術も卓越していて、主人公のデッカード(ハリソンフォード)はぼこぼこにされる。さらには、壁に隠れてハアハア休んでいたら、その壁をぶちぬいて鼻先に腕がつきだすというおきて破りの鉄腕ぶり。とっても怖かった。この怖さは、同じリドリー・スコットが監督のエイリアンや、後のターミネーターに共通のものだ。当時エイリアンをまだ見ていない私には、衝撃的で新鮮だった。

さらに、この映画のすごいところは、人間性とは何かについてしつこく鋭く問うていることだ。主人公デッカードは、何とかんとかレプリカンとを仕留めてゆく自分が、実はレプリカントではないのかと疑惑を抱き始める(レプリカントは製造時に適切な記憶を植えつけられる)。さらに、レプリカントの一人レイチェルに恋してしまう。さらにその混乱は、彼女のオリジナルのタイレル社(レプリカントの製造元)社長の娘(名前は忘れた)に誘惑され、拍車がかかる。「私はオリジナルだから、レイチェルよりよいはず」というわけだ。さあ、タイレル社ビルの崩壊の末一緒に逃げた女性は、一体彼が愛したレイチェルだったのか、それとも彼女のオリジナルだったか?「あなただったらどっちがいいですか?」と映画が問いかけてくる。油断のならない映画だった。
というと、小難しいようだが、アクション映画として十分楽しめる質の良い娯楽作品であることも保証する。ぜひ、一度ご賞味あれ。